『言葉の如く、』
「ルイジアナで一本の樫の木が生えてるのを見た」とき、ホイットマンは
「おれにはとてもできやしない」とその心情を吐露します。その孤独な木
は「荒野にひとり輝きを放ち、近くに友も恋人もいないまま一生元気な
葉を生やして」立っていたといいます。
故郷に戻り、この土地にしっかりと根を張る一本の木という生き方を選ん
だぼくには、飯野友幸訳(光文社古典新訳文庫:『おれにはアメリカの歌
声が聴こえる――草の葉』)によるこの一遍の詩が、なまりの枝葉をもっ
た木のようにずっしりと重苦しく、悲壮な雨にさらされた気分になることを、
正直に自白しなければなりません。
けれども思い出して、長田弘のエッセー集『アメリカの61の風景』を捲り、
有島武朗訳(岩波文庫:ホヰットマン詩集『草の葉』)で引用された、おなじ
詩の言葉を、字引くように呼吸しなおしてみると驚きます。まるでこころの
持ちようがちがった言葉となるからです。
原文の“ uttering joyous leaves ”を飯野友幸は「青々とした元気な
葉を生やしていた」と訳しますが、有島武朗は「言葉の如く、歓ばしげな暗
緑の葉を吐いていた」と訳すのです。
これはどちらが優れ、どちらが劣るという問題ではなく、読み手がその言
葉といつ、どこで出逢い、そのときどう感じたかという、言葉の手渡され方
(受け取り方)の差異だと思うのです。幸いなことにぼくはす寸手で、ホイッ
トマンのうたった詩から、じぶんにとっての価値――勇気を誤差なく得るこ
とができたのでした。
“ ルイジアナの大きな木が木の下にたたずむものに質すのは
「みずから問う」という生き方の姿勢だと、ホイットマンは言う。
ホイットマン自身、その詩を読むものに、みずから問うという
姿勢をもとめる、大きな木のような存在を生きた詩人だった ”
――と長田弘はいいます。
しかし「おれにはできやしない」(飯野訳)と吐き棄てたホイットマンに質され、
それでもぼくは「言葉の如く、歓ばしげな葉を吐く」孤独な木という生き方を、
日々の暮らしに貫くことを選びとることしかできないのです。
■
(文=石垣ゆうじ)
「おれにはとてもできやしない」とその心情を吐露します。その孤独な木
は「荒野にひとり輝きを放ち、近くに友も恋人もいないまま一生元気な
葉を生やして」立っていたといいます。
故郷に戻り、この土地にしっかりと根を張る一本の木という生き方を選ん
だぼくには、飯野友幸訳(光文社古典新訳文庫:『おれにはアメリカの歌
声が聴こえる――草の葉』)によるこの一遍の詩が、なまりの枝葉をもっ
た木のようにずっしりと重苦しく、悲壮な雨にさらされた気分になることを、
正直に自白しなければなりません。
けれども思い出して、長田弘のエッセー集『アメリカの61の風景』を捲り、
有島武朗訳(岩波文庫:ホヰットマン詩集『草の葉』)で引用された、おなじ
詩の言葉を、字引くように呼吸しなおしてみると驚きます。まるでこころの
持ちようがちがった言葉となるからです。
原文の“ uttering joyous leaves ”を飯野友幸は「青々とした元気な
葉を生やしていた」と訳しますが、有島武朗は「言葉の如く、歓ばしげな暗
緑の葉を吐いていた」と訳すのです。
これはどちらが優れ、どちらが劣るという問題ではなく、読み手がその言
葉といつ、どこで出逢い、そのときどう感じたかという、言葉の手渡され方
(受け取り方)の差異だと思うのです。幸いなことにぼくはす寸手で、ホイッ
トマンのうたった詩から、じぶんにとっての価値――勇気を誤差なく得るこ
とができたのでした。
“ ルイジアナの大きな木が木の下にたたずむものに質すのは
「みずから問う」という生き方の姿勢だと、ホイットマンは言う。
ホイットマン自身、その詩を読むものに、みずから問うという
姿勢をもとめる、大きな木のような存在を生きた詩人だった ”
――と長田弘はいいます。
しかし「おれにはできやしない」(飯野訳)と吐き棄てたホイットマンに質され、
それでもぼくは「言葉の如く、歓ばしげな葉を吐く」孤独な木という生き方を、
日々の暮らしに貫くことを選びとることしかできないのです。
■
(文=石垣ゆうじ)
by momiage_tea
| 2007-06-25 17:50