『ある日の手紙』 ⑦
修一くんへ
いかにして自分を消しやって、それでいて自分を存在させていけるのだろうか?
どうあがいてもこの時代、世の中を避けて通ることはできないのだ。・・・ひとつ
の方法として逃避や諦めを認めて、自殺のような生を生きつづけるのはご免だ。
そうではなく、僧侶もしくは仙人のごとき崇高な態度でもって「隠居」の味わいを
日々の暮らしに求めていきたいものである。「隠居」といっても老後の余生を悠々
自適に過ごしやるといった類の、いきなり背広からアロハシャツに着替えるみた
いな、日向臭い生き方ではない。
たとえば大相撲だ。アナクロニズム(時代錯誤)の典型として、廃れゆく伝統工芸
への眼差しとひとしく大相撲を捉えるのは間違いだ。現代人はとかく、かわいそう
とでもいうような同情的な目つきで大相撲をみているが、それはレベルが達して
ないからである。
とはいえ、ぼくがこれほど現代と向き合っているのは大相撲ぐらいなのではなか
ろうか? 土表上の力士のほとんどは自分よりも歳下の若者なのだ。ひいきに
している大関白鵬などまだ21歳である。
しかし、どんなに偉大な相撲取りにも、陰にはかならず親方の支えというものが
あるように、さらには歴史や伝統がいやでもついてまわるのが相撲取りだ。だが、
土俵にあがる力士たちは、それでも古いものを守るために相撲を取っているので
はない。歴史や伝統のあとに、あらたな道を積み重ねているのである。
不在にしてならない人、蔑ろにしてはならないもの(所作など)を理解したうえで、
力士が日々の土俵に当面しているものだと信じたい。古風なものが好みだという
だけでは大相撲のような伝統文化は継承しえないであろう。
退廃し、瀕死の重傷を負ったプロレスやそのあとに続くであろうK-1やPRIDE
をみるにつけ、また、野球やサッカーの一見して根付いたと思わせる盛況ぶり
は、ぼくの眼には不安や疑念と同義に映る。その浮き足だった感覚はつまりは
ファッション(流行)だ。
ファッションはスタイル(様式)には敵わないというのがぼくの見方だ。大相撲に
おけるスタイル――たとえば大銀杏(ちょんまげ)などは、ファッションを凌駕し、
非日常な様相を、現代において見事に押しきっているではないか。
それでいて着物に雪駄の相撲取りを街中で見かけても、親しげな感慨を抱き
こそ、渋谷や原宿の雑踏をいく奇抜なファッションの若者から受ける不快さを
感じないのは、つまり大相撲が過去の日々において正当な取捨を見失わなか
ったがためであろう。
余談だが、いまの相撲について、立会いの「手つき」をいまいちど廃止し――
立会いの変化で一瞬にして終わる取り口を減らし、より内容のある土俵を窺う
べきだとぼくが考えるのは、(前例はあるが)革新的な意見であろう。
大相撲が現代というフィルターごしになおも美しく、論ずるべき議案と価値があ
るのだという事実は――ぼくにとって世間から「隠居」した形でもってしての、現
在進行形の所以である。
「隠居」とは距離と間合いのことであり、相手と向かい合う覚悟や手段のことで
ある。「隠居」が現世との隔絶した桃源郷でしかないのなら、それこそぼくは当
のむかしに土俵をおりていただろう。
■
(文=石垣ゆうじ)
いかにして自分を消しやって、それでいて自分を存在させていけるのだろうか?
どうあがいてもこの時代、世の中を避けて通ることはできないのだ。・・・ひとつ
の方法として逃避や諦めを認めて、自殺のような生を生きつづけるのはご免だ。
そうではなく、僧侶もしくは仙人のごとき崇高な態度でもって「隠居」の味わいを
日々の暮らしに求めていきたいものである。「隠居」といっても老後の余生を悠々
自適に過ごしやるといった類の、いきなり背広からアロハシャツに着替えるみた
いな、日向臭い生き方ではない。
たとえば大相撲だ。アナクロニズム(時代錯誤)の典型として、廃れゆく伝統工芸
への眼差しとひとしく大相撲を捉えるのは間違いだ。現代人はとかく、かわいそう
とでもいうような同情的な目つきで大相撲をみているが、それはレベルが達して
ないからである。
とはいえ、ぼくがこれほど現代と向き合っているのは大相撲ぐらいなのではなか
ろうか? 土表上の力士のほとんどは自分よりも歳下の若者なのだ。ひいきに
している大関白鵬などまだ21歳である。
しかし、どんなに偉大な相撲取りにも、陰にはかならず親方の支えというものが
あるように、さらには歴史や伝統がいやでもついてまわるのが相撲取りだ。だが、
土俵にあがる力士たちは、それでも古いものを守るために相撲を取っているので
はない。歴史や伝統のあとに、あらたな道を積み重ねているのである。
不在にしてならない人、蔑ろにしてはならないもの(所作など)を理解したうえで、
力士が日々の土俵に当面しているものだと信じたい。古風なものが好みだという
だけでは大相撲のような伝統文化は継承しえないであろう。
退廃し、瀕死の重傷を負ったプロレスやそのあとに続くであろうK-1やPRIDE
をみるにつけ、また、野球やサッカーの一見して根付いたと思わせる盛況ぶり
は、ぼくの眼には不安や疑念と同義に映る。その浮き足だった感覚はつまりは
ファッション(流行)だ。
ファッションはスタイル(様式)には敵わないというのがぼくの見方だ。大相撲に
おけるスタイル――たとえば大銀杏(ちょんまげ)などは、ファッションを凌駕し、
非日常な様相を、現代において見事に押しきっているではないか。
それでいて着物に雪駄の相撲取りを街中で見かけても、親しげな感慨を抱き
こそ、渋谷や原宿の雑踏をいく奇抜なファッションの若者から受ける不快さを
感じないのは、つまり大相撲が過去の日々において正当な取捨を見失わなか
ったがためであろう。
余談だが、いまの相撲について、立会いの「手つき」をいまいちど廃止し――
立会いの変化で一瞬にして終わる取り口を減らし、より内容のある土俵を窺う
べきだとぼくが考えるのは、(前例はあるが)革新的な意見であろう。
大相撲が現代というフィルターごしになおも美しく、論ずるべき議案と価値があ
るのだという事実は――ぼくにとって世間から「隠居」した形でもってしての、現
在進行形の所以である。
「隠居」とは距離と間合いのことであり、相手と向かい合う覚悟や手段のことで
ある。「隠居」が現世との隔絶した桃源郷でしかないのなら、それこそぼくは当
のむかしに土俵をおりていただろう。
■
(文=石垣ゆうじ)
by momiage_tea
| 2006-08-06 22:26
| 石垣ゆうじ