スケッチブック
そうして代わりに求めたのは一冊三百円の古雑誌だった。『Switch』86年4月号。
特集は“ブルックリン・ライターを求めて”その下に“ピート・ハミル・ライブ”の文字。
――ピート・ハミルは『ブルックリン物語』の著者でり、あの山田洋次監督の『幸せ
の黄色いハンカチ』の原作者でもある作家だ。タフガイだ。彼の作品でとりわけ私
が気に入っているのはニューヨークに生きる突飛な市井人の暮らしを綴った短編
集、『ニューヨーク・スケッチブック』だ。
雑誌『Switch』はピート・ハミル本人と彼の物語の背景であるブルックリンの街を
取材しているのだったが、地元の酒飲みからいきなり「ブルックリンって街をすみ
からすみまで知っている人間なんていやしないよ。何考えているんだ。一生かか
ったって、ブルックリンって町は、どの通りにどういけばいいのかわからないんだ
から」と、一掃されてしまう。なぜそこに暮らすのかと問われてデニス・ハミル(ピー
トの実弟)はこう答えている。「伝統がある。そして生活がある」と。
私ならその問いに「ここで生まれたから」と答えるだろう。人はいずれ故郷から巣
立ってゆくもので、私にもかつてはそういう時期がわずかだけあったのだけれど、
負け戦の帰還兵として再び我が街に舞い戻ってきた敗残者にとって、この土地に
いる理由はただひとつ「ここで生まれたから」なのだ。偏愛としがらみ。束縛と自由。
生涯控え選手という、暗黙のベンチ裏での素振りだけが、夏のぬるい微風や雪解
けの湿った匂い――そうした香りは年々とらえにくいものになっている――のなか、
まるで地中に送り込まれる炭坑夫の気分で、グランドへとつらなる長いながい通路
の奥にひとり、にわかに耳に届く歓声を聞いているのだ。
「私にとって根本的な場所なんだ。帰る場所。作家はなによりも自分の知っている
ことを書かなくちゃならないんだ。パリのこと、東京のことよりは、自分はブルックリン
のことを書かなくちゃならない。書くということの第一義に感じているのは、人を浮き
彫りにするということです。人を浮き彫りにするためには、その人達がどういうところ
に育ったか、過去の状況、感情、態度が重要になる。ディケンズにとってロンドンが
自分の地であったように、私にとってはブルックリンのキャラクターが書くには必要な
素材だった」(ピート・ハミル)
年末の宴席で、なぜ書くのかと問われて、私は困った。ピート・ハミルみたいに的確
な物言いはできなかった。私はもう長いこと自分にだけ赴いて書いてきたわけだが、
身の回りの人物を描くことこそが、もっといえば、その人物と接する自分の受け身の
取り方こそが、私というのっぴきならない人物像を提示することになるのだと、最近
になってようやく気づいたのだった。私の『スケッチブック』の住人たちは今、開示悟
入を求めている。
■
(文=石垣ゆうじ)
特集は“ブルックリン・ライターを求めて”その下に“ピート・ハミル・ライブ”の文字。
――ピート・ハミルは『ブルックリン物語』の著者でり、あの山田洋次監督の『幸せ
の黄色いハンカチ』の原作者でもある作家だ。タフガイだ。彼の作品でとりわけ私
が気に入っているのはニューヨークに生きる突飛な市井人の暮らしを綴った短編
集、『ニューヨーク・スケッチブック』だ。
雑誌『Switch』はピート・ハミル本人と彼の物語の背景であるブルックリンの街を
取材しているのだったが、地元の酒飲みからいきなり「ブルックリンって街をすみ
からすみまで知っている人間なんていやしないよ。何考えているんだ。一生かか
ったって、ブルックリンって町は、どの通りにどういけばいいのかわからないんだ
から」と、一掃されてしまう。なぜそこに暮らすのかと問われてデニス・ハミル(ピー
トの実弟)はこう答えている。「伝統がある。そして生活がある」と。
私ならその問いに「ここで生まれたから」と答えるだろう。人はいずれ故郷から巣
立ってゆくもので、私にもかつてはそういう時期がわずかだけあったのだけれど、
負け戦の帰還兵として再び我が街に舞い戻ってきた敗残者にとって、この土地に
いる理由はただひとつ「ここで生まれたから」なのだ。偏愛としがらみ。束縛と自由。
生涯控え選手という、暗黙のベンチ裏での素振りだけが、夏のぬるい微風や雪解
けの湿った匂い――そうした香りは年々とらえにくいものになっている――のなか、
まるで地中に送り込まれる炭坑夫の気分で、グランドへとつらなる長いながい通路
の奥にひとり、にわかに耳に届く歓声を聞いているのだ。
「私にとって根本的な場所なんだ。帰る場所。作家はなによりも自分の知っている
ことを書かなくちゃならないんだ。パリのこと、東京のことよりは、自分はブルックリン
のことを書かなくちゃならない。書くということの第一義に感じているのは、人を浮き
彫りにするということです。人を浮き彫りにするためには、その人達がどういうところ
に育ったか、過去の状況、感情、態度が重要になる。ディケンズにとってロンドンが
自分の地であったように、私にとってはブルックリンのキャラクターが書くには必要な
素材だった」(ピート・ハミル)
年末の宴席で、なぜ書くのかと問われて、私は困った。ピート・ハミルみたいに的確
な物言いはできなかった。私はもう長いこと自分にだけ赴いて書いてきたわけだが、
身の回りの人物を描くことこそが、もっといえば、その人物と接する自分の受け身の
取り方こそが、私というのっぴきならない人物像を提示することになるのだと、最近
になってようやく気づいたのだった。私の『スケッチブック』の住人たちは今、開示悟
入を求めている。
■
(文=石垣ゆうじ)
by momiage_tea
| 2011-01-02 23:30
| ゆうじ × TOMOt