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誕生日


「研ナオコ、中島みゆきを歌う」のノリで、我が記念日は「ラクさん、みずから誕生日
を祝う」に決めていた。朝から、何を置いてもわたしは自分のためのTシャツを確保
することに余念がなかった。あとはTシャツの色身を決めてしまえばいいだけだった。

若草色かグレーかで迷っていた。先月仕入れたばかりの濃紺のTシャツは無地で、
左胸にポッケが付いているほかはいたって特徴もない驚くべき地味さを発揮した一
枚なのだった。そのことを鑑みればここは明るい若草色のTシャツを仕入れておいた
方が得策だろう。

そんなわけでわたしは倉庫からビニル袋に入ったままのTシャツをレジカウンター
の小脇に忍ばせておいたのだった。やがて閉店の時刻を迎えると、早帰りだった
わたしは若大将にレジを打つように促した。わたしも若大将も準社員という立場だっ
たので本来ならば正社員のスタッフに会計をお願いしなければならなかった。だが
肝心の正社員はこの日最後の来店者の接客におわれているところだった。

「よっしゃ、仙台らしくていいやね。(※)ずんだ餅みてえな色をしてやがるけど、夏
だからこれぐらい明るくてもいいだろう?」とわたしはそのTシャツを購入する決断を
しておきながらわざと若大将にいった。
「いや~ラクさん、それはあんたにはちょっとばかし派手なんじゃないの?」
「まあ、そうだけどな。こないだ買った紺色のTシャツが地味すぎたからよ。今回は
パッっとしたのを選んでもいいだろうと思ってな」
「あの落ち着いたTシャツにゃあびっくりさせられたよ! いくらラクちゃんでもそいつ
はねえだろうと思ったからな!」
「白とか紺とか、地味目な方が着回しが効くのよ! 赤だの黄色じゃすぐに飽きちまう
し、第一、着てても落ち着かないのよオレの場合は!」
「あのシャツは落ち着き過ぎだって! どこの農家の親父かと思ったからな」
「だからこいつを買うんじゃねえかい!」といってわたしはずんだ色したビニル入りの
Tシャツをパシャパシャとカウンターの上に叩きつけた。
「だめだよそいつは!」
「なんでだよ?」
「飽きるって」
「たまに明るい色のシャツでも着たらいいんじゃねえかって、いつでもいうじゃねえかよ」
「いや、やめた方がいいと思いますよ。悪いこといわないからグレーにしておきなって!」

「ああ? う~む……。そうかい?」わたしはしばし吟味した。きっとグレーのシャツは
似合うことだろう。無難だし、それこそ自分の性格にもあっているというものだ。いや、
だからこそこの辛気臭いツラを誤魔化すために、陽のいっぱいに当たった若草色の
シャツを買うんじゃないか。そうすればちっとは気分も浮き立つってものだろう。ビール
に枝豆がつきもののように、新生ラクさんにも枝豆が必要なのだ! イメージカラーは
紺色でも灰色でもなくて、このずんだ色に鞍替えだ!

「いやいやいやいや、若大将! さっさとレジを打ちやがれ! こいつで決まりだぜ!」
「ラクちゃん!」と奴はいった。腕組みをして人を詮索するような目つきだ。「ラクちゃん、
もうすこし考えてみたらいいんじゃないの? やっぱりグレーだろう?」
「うるせえ男だな! なんだって今日に限ってつべこべいいやがるんだよ! 今日は
オレの誕生日だぜ! 好きにさせたらいいじゃねえかよ!」
「ラクちゃん!」と若大将は瞬きもせずにいった。やれやれといった具合だった。「あんた
気の利かない男だよなあ。誕生日だっていうから、誰かがあんたのお目当ての品を
そこいらに準備してる算段らしいぜ」

「……あれまぁ!」その計画は完全に計算違いだった。とはいえみんなの好意をぶち
壊してしまうわけにもいかなかった。わたしは肩をいからせて前方からやってくる糞ガキ
にも道を譲ってやる善良な小市民なのだ。まあそれに、「お爺ちゃん、また渋いの着て
ますねえ」とからかわれるぐらいで、グレー色なら落ち着くところに落ち着いたってところ
じゃないか。

「――そうかいそうかい、そいつはすまないねえ」とわたしは志村けんが意地悪ばあさん
を演じるみたいな物ぐさな口調でいった。いくばくかの照れとばつの悪さを覆い隠すには
喜劇がいちばんだったからだ。
「ったくよ、珍しく色気なんて出すからこういうことになるのよ!」
「なんだってオレが悪者にならなくちゃいけねえんだ?」

(※)ずんだ・・・・・・枝豆をすりつぶしたものに砂糖で味付けしたタレ。仙台名物。

(文=いしがきゆうじ)
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by momiage_tea | 2009-06-30 00:06 | ゆうじ × TOMOt

往路書簡 ③ (続・『愛を読む人』について)


ギリシアの猫へ

あなたが『朗読者』を読んだのはいつのことだったのでしょうか?
ぼくはその原作本を読むことなく映画『愛を読む人』を観てきました。
あの映画はアカデミーの主演女優賞を受賞したケイト・ウィンスレット
の演技云々というよりも、ひと組の男女を支配してしまうこととなった
のっぴきならない出逢いと運命の、その意義について考えることの
無意味さに魅せられたような気がしています。

つまり、愛はまったくの純真さや無償性から生じた挙げ句の果てに、
不実さえももたらしてしまうのだということを熟知しているからこそ、
それでも悲痛を伴う愛を通過できたことを肯定できるというよろこび
です。ぼくに涙を流させたのは物語であり、役者の演技や言葉であり、
そしてやはりぼくの奥底や表面に漂い続けるあなたとの記憶なので
しょう。

http://www.aiyomu.com/

(文=いしがきゆうじ)
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by momiage_tea | 2009-06-29 22:47 | ゆうじ × TOMOt

映画『愛を読む人』について


映画はけっして娯楽ではない。映画『愛を読む人』を観てつくづくそう思わされた。
三六歳の女と十五歳の少年の抜きさしならない恋。この映画は「愛」というひとつ
の物語ではなく「恥」というひとつの問題を浮き彫りにした作品だった。

ひとりの女が抱えたある秘密。それは「恥」であり、「恥」を公にできないことによっ
て女は職業も恋愛も生活もすべて投げ売ってしまわねばならなかった。そのこと
で人生の歯車が狂った女はやがて法廷で裁かれる身となる。そしてそこでも「恥」
を覆い隠すことの方を選び取った女は、犯した罪以上の罪をかぶることすら受け
入れてしまうのであった。

法学生としてその裁判を傍聴することとなったかつての少年も、女の秘密に気づき
ながらついぞ異議を唱えるこはしなかった。いや、できなかった。彼は法廷で、その
場の秩序を遵守せざる得ない法学生(=傍観者)という立場を行使することによって
自分自身を守ったのだった。それは真実に背いた「恥」であり、そのことが時代を経
ても褪せることのない「愛」を養った要因でもあったはずである。

映画の中で扱われた「恥」を基準に考えると、どうしてあの女はそこまで「恥」をかく
ことを恐れたのかと勘繰ってしまうのだったが、人には言えない「恥」をたくさん持っ
ているわたし自身に置き換えてみると、「恥」を封印することによって自らの人生を
違えてしまうことも厭わない、その覚悟も理解できるのだった。

コンプレックスや罪の意識の度合いいかんによって、人は他人には思いすごしで
しかないかもしれない爆弾を抱え込んだまま自滅してゆくのである。それは愚かな
被弾なのか? しかしそれを仕込んだのはわたしというよりも、むしろ一個の人間
に宿された宿命なのだと思う。

http://www.aiyomu.com/

(文=いしがきゆうじ)
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by momiage_tea | 2009-06-29 22:39 | ゆうじ × TOMOt

MUTO



d0059157_21201912.jpg

MUTO
↑ごらんあれ。

tomot
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by momiage_tea | 2009-06-29 07:07 | TOMOt

日曜日には


金がないと「ああ金がない」としか書けない。――空はあおく、海はひろい――などと
いったあまりに率直な詩のように、深遠さとは別物の、ひどく短絡的で浅ましさすら
覚える物言いでもってでしかわたしは言葉を紡げない。おなじ金がないのでもジョー
ジ・オーウェルの手にかかるとこうなる。“明日一日、煙草なしで過ごすことを思うと、
彼は心が萎えてしまった。”(――『葉蘭を窓辺に飾れ』)

削るものがない文章が一概にいいとも限らないのだ。「ああ金がない」ではあまりに
埒があかないではないか。「ああ金がない」という嘆き節には気分がない。そして才
能もない。あるのは悲観とおこがましさだけだ。金がないということですべてが否定
されて当然といった世界に映り、そのあとに続く語句はどんなものであれ言い訳に
しか育たなくなる。わたしは今のいままで育たない苗木にせっせと水をやっていた
のだ。どうりで芽が出ないはずだった。

わたしが手紙を書かなくなって久しいのはそれらが結局は自分自身に宛てて書かれ
た手紙であることに気づいてしまったがためだった。同情を誘うような言葉を書き連ね
てわたしは、遠く離れた友人知人を巻き込んで独り身の寂しさを紛らわしていたのだ。
そうした不甲斐なさをまたしても悟ったところで今度は書く手を緩めるわけにはいかな
かった。むしろ手綱を握りしめて我がケツにこっぴどく鞭を入れなくてはならない。

そのようにして六月は過ぎて行くはずだった。ところが今日は日曜日で憎むべき素人
の日だった。しかも完成した七月のシフト表にはさらに土日の休みが増えていた。土日
に休まなくてならないなんて、糞だ! きっとわたしの販売員としての手腕に疑問符が
付けられたのだろう。わたしのような愛想なしの店員は週末のシフトから外した方が売
上は上がるに違いなかった。

この梅雨の晴れ間の日曜日のなんたる能天気なことか! それでいてひとけのない
広瀬川の川べりにはどこか気忙しさすら漂っているではないか。土日になると金持ち
も貧乏人もかまわず買い物をする。人びとが急騰するガソリン代をケチっていたのは
ほんの数カ月前のことなのに。そのくせいまではETCを搭載した車に乗って郊外に向
けてひた走っている。喧しい音楽を車窓から垂れ流し、いきがってスピードを上げてゆ
く。そして渋滞!
 
わたしはわたしで休日の平穏さに耐えきれず山から下りてきて、駅前やアーケードで
烽火をあげる素人たちの火の粉がこの身に降りかからないように細心の注意を払いな
がら、閑散としたオフィス街のカフェで日曜日に紛れているのであった。こうした場所で
ひと目が気にならないということはひと時もなかった。わたしはひとりの人間として誰か
に語って聞かせるほどの物語の持ち合わせもないまま、この街から何かを搾取され続
けていた。

実際のところ、市民税の納付書の束が送られてきたところだった。わたしはメモ書きに
せっせと資金繰りの計算を書きつけてはそのつど無駄のない暮らしぶりからさらに脂肪
を削ぎ落としてやらなければならなかった。さながら真夏の炎天下にサウナスーツを着
込んで走り込む体重オーバーの拳闘士のようであった。しかし、わたしにはボクサーを
リングに向かわせるための闘争心が備わってはいなかった。

スモーキーマウンテンの職場の連中には海があったし山があった。そこで彼らは有り
余る体力を使い果たしてしまいながら、清々しい疲労感と充足感を味わっていた。そう
して翌朝、スモーキーマウンテンの軒先を潜るときには慎ましやかな意義を感じること
さえあったはずだろう。だが、わたしを待ち受けているのは地方都市の客入りも散漫な
カフェのテーブル席だけだ。愚かしいチェーン店だ! しかもそうしたカフェを日に四軒
もはしごすることすらざらにあった。

サーファーたちは波が良ければ四時間も浜辺に戻らずそれで平気な顔をしていたもの
だ。それで足が攣りそうだのと笑顔で話して歓楽街へも足を向けるだけの余力があった。
こいつらは完璧な阿呆だと思うことが度々あった。けれども、考えてみればひと目を気に
しながら背中を丸め、四軒ものカフェを練り歩いて、気むずかし顔で読んだり書いたりし
ているわたしの方が度しがたい阿呆なのだった。わたしは飲みたくもないコーヒーを人質
に、客を追い出すためにキツくした冷房に晒され続けていた。どうりで蒼白く陰険な面構え
になるはずである。頑なで卑しい作家先生はまだこの境遇にしがみついていなければな
らなかった。

(文=いしがきゆうじ)
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by momiage_tea | 2009-06-28 22:09 | ゆうじ × TOMOt

二律背反


再び波長のはなし。純朴でおとなしげな女の子だが実は芯の強さは
半端じゃないであろうことを人柄の下に隠している娘と、ちゃきちゃき
してさもひとの二倍の情熱を捧げて人生を渡り歩いているような女の
子。だけどきっと自分自身に対する馴染めない思いを拭い去れずに
いるはずの娘。そのどちらが好みだったかといえば、第一印象では
前者で、酒を酌み交わしたあとでは後者へと好みが変わっていた。

地味な印象を与える娘の影に見え隠れする奔放さと、華やかな印象
を与える娘の裏に見え隠れする悲壮。そうした二律背反がわたしの
何かを刺激し、それに反応する仕方によってわたしはわたしの意思
を掴み取る。一種の相手に対するサービス精神が働いたのは後者
の娘に対してであって、前者の娘に働いたのは相手への気遣いだ。

要はどちらがわたしにとってノンストレスだったのかという問題である。
こうしたことは人間同士のもつ波長に関係性があるのではないかと
わたしは考えている。その関係が心地良いからといって友達や恋人、
あるいは職場の同僚といった具合に立場や距離感によりその潤滑さ
は異なってくるのである。大勢の中の一人としてはいいがいざ二人と
なるとむずがゆい。そんな場合もあるし、またその逆もままあるのだ。

(文=いしがきゆうじ)
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by momiage_tea | 2009-06-23 23:58 | ゆうじ × TOMOt

雨の日曜と月曜の雨


日曜の夜が好きだ。日曜の夜はわたしにとっての週末の夜だ。
明くる日がたとえ勤めでも休みでもそれは構わない。あしたを
待ち構えている人びとが家にいて、やはり明日を待ち構えてい
るような夜には、わたしはひとり街を自転車で疾走しながら雨
に洗われる。新たな自分に生まれ変わる手筈を整えながら。

だけど月曜の朝は嫌いだ。月曜の朝は稽古不足の初日の朝だ。
出遅れて、カラダが痛くて、機嫌のわるい自分がいる。雨がそれ
に追い打ちをかける。じゃぶじゃぶやる長靴も、くるくるやるコウ
モリ傘も、紫陽花だって見当たらない。しかしわたしは、山道を
無尽に駆け巡った。木の葉から滴る雨が額の汗を流してくれた。

(文=いしがきゆうじ)
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by momiage_tea | 2009-06-22 23:27 | ゆうじ × TOMOt

右、左


どこかで誰かが呼んでいた。そんな気配がしている。旅に出るときの浮き
立つような思いと緊張が人を大胆にも緻密にもさせるのだったが、あらか
じめ決められた行路からずれた途端に途方もない不安にかられてしまう
ような人間ならば、部屋で書物に読み耽っている方が無難なのだろうか?

どこかで待ち受けているのはきっと物怖じしない性格の人物であり、わたし
から視線を逸らさないで明るい笑顔を投げかけくる、自信と魅力に溢れた
人物であろうが、わたしは元来、どこかしら蔭のある人間を好む性質であり、
そうした完璧さの中にある危なっかしい欠落を、わたしなら包容できるのだ
と請け負う決意によってのみ、自らの欠点を相殺してきたのだった。

そうしながらわたし個人に備わっていたはずの溌剌とした精神は、ひたすら
地中の奥深くまで根を張って、尻込みをつづけているうちに腐れてしまうとい
う始末だった。誰のせいでもなく「ただ自分自身にのみ赴くんです」とアメリカ
について語ったドストエフスキイは、わたしの裡にはいなかった。

ただあるのは、我がままな思いやりだけに終始したなれの果ての記憶だけ
で、そうしたものは美化も熟成も退化もすれど、いずれ手の施しようのない
状態に甘んじていなければならぬ卒業写真のようでわたしにはとても直視
できない……。

さてわたしはこのような閉塞的で取り留めのない状況からそろそろ抜け出さ
なくてはならない。わたしは自分を生き抜こうとして返って他者を生きてしま
っていたのだった。その原因は様々だが、規則違反を犯したというよりはむ
しろ、模範囚であろうとしたことが看守の反感を買った理由ではないかとさえ
思うのだ。

わたしはしばしば独居房に閉じ込められてきた。ときには自分の意思でそう
してくれと乞うこともあった。要は、どんな行いをしたところですべては刑務所
内での出来事でしかなかったということだった。いや、やはり罪の意識の希薄
さと、それとは逆に募る理不尽さからすればわたしの寝床は強制収容所の類
だったのではないか。

かつて時代がキリシタンを排除したように、わたしも何らかの支配下のもと、
僻地での抑留生活を強いられてきたのである。ああ、こうも下らない話はもう
まっぴらだ! それなのにわたしはこの文字を紡ぎだすか細い指を守るため、
拳を壁に打ちつけることさえままならずにひたすら立ちすくんでいるのである。

栄光の道のりはわたしの目に眩し過ぎるのか? 果たしてその待ち人はわたし
を迎えてくれるのか? 塀の外で、もう後戻りできないはずの重い扉を仰ぎみて、
わたしは右へ行こうか左へ行こうかと身を揺らしているのであった。
 
(文=いしがきゆうじ)
d0059157_152752.jpg

(絵=TOMOt)
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http://www.tomomichi-suzuki.com
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by momiage_tea | 2009-06-21 23:53 | ゆうじ × TOMOt

ねずみ花火


若大将と顔を合わせるのは六日ぶりだった。彼はその間にトンパチと連れだって
静岡まで波乗りをしに行っていた。サーフボードの展示会かなにかが催されたら
しかった。わたしはまったく興味がなかったのでイベントの中身については聞かな
かった。そこではスモーキーマウンテン社もブースを出展していたので、偉いさん
や全国の波乗り愛好者諸君も集まっていた。

若大将もトンパチもサーフィンの腕前は社内で三本の指に入る猛者だったのだが、
彼らはそれぞれ岩手の海沿いと宮城の内陸部の出身で、垢抜けしない、朴訥で
やんちゃな波乗り小僧だった。

「また馬鹿にされて帰ってきたわ」と若大将はいった。「みんなそれなりに服装に気
を遣って来てるのに、なんだおまえらのその格好はっていわれたよ!」
「トンパチはいつものスタイルで行ったのか?」とわたしは聞いた。
「ああ、ロゴハットにTシャツにバギーショーツよ! おまけに首からカメラぶらさげ
て、運動会のパパ丸出しだからよ、おまえはいつの年代を意識してるんだってい
われてたよ!」

「そりゃあ、奴の正装じゃねえか!」
「そうよ! それに靴を履いていったら静岡は暑いからよ、浜辺でビーサンを仕入れ
たのよ。だけどあのオヤジさんは銀蠅だか爬虫類のウロコだかわからねえ柄のサン
ダルを買って来ちまったからよ! またみんなにどういうセンスしてんだってからか
われてたぜ!」

「たいした男だな。選挙に出たら通っちまうんじゃねえのか? それであの男はあれ
これいわれて怒ってなかったのかい?」
「みんなに小馬鹿にされてまんざらでもなさそうだったよ。気を利かせて記念写真を
撮りまわってたしな。だけどそのときの格好がまたこうやって……」といって若大将は
ガニ股になって腰を割り、わたしをカメラに収めるポーズをとった。「……まるでどっか
の田舎の兄ちゃんみたいだったよ」

「田舎の兄ちゃんじゃねえかあいつは!」
「ああ、あの人は天才だわ!」
「まったく野郎はとんだ喜劇役者だな!」とわたしはその意見にお墨付きをつけた。
「そうよ、喜劇役者の天才だぜあの人は!」
「藤山寛美かトンパチかってもんだな!」

「それで、店の方ではなにか事件はなかったのかい?」
わたしは顎に手を当ててしばらく記憶をたどっていた。そうして「おい、なにひとつ
お祭りごとはなかったぞ」といった。
「つまらねえな。じゃあ葬式ごとはなかったのかい?」
「葬式? ああ、そういやきのう母方の婆ちゃんの一周忌法要に参列してきたぜ。
しばらくぶりでネクタイを締めなきゃならなくてな。だけど出発のギリギリになって
もそれがみつからなくてすっかり焦っちまったよ……」
若大将はわたしの顔をみすえたままひとつ目をしばたたかせると「それで終わり
かよ?」といった。わたしは「ああ」と答えた。

「おちは?」
「そんなもんあるもんかい!」
「ラクちゃん、あんた随分とつまらなくなったな」
「まったくだ。俺もすっかり落ち目だな。申し訳ないぐらいだよ」
「この店もすっかり退屈になっちまったもんだな」
「退屈だってことは、自分で自分を持て余してるってことなんだぜ――」
「ラクちゃん、あんた脳書きだけは一丁前だよな」
「……。……。」

若大将は腕を組むと店の外に目をやった。わたしも深々と溜息をつくとカウンター
に両の手を置いて店の外に目をやった。若大将はこちらに向き直り、わたしも彼に
向き直った。
「で、ラクちゃん、なんかおもしろい出来事はなかったのかい?」
「……すまねえな」

若大将はわたしをじっと睨みつけると、スタスタと二階のフロアに駆け上っていった。
わたしは店のカウンターに手をついたまま眼の端でその姿を追っていた。彼はこち
らを振り返ることもなく階段を上っていった。わたしは自分自身にもスモーキーマウ
ンテン社にも飽きていた。なにか刺激が必要だった。ねずみ花火でも買ってきて自
分の足元に転がしてみればいいのだろうか?

(文=いしがきゆうじ)
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by momiage_tea | 2009-06-19 23:25 | ゆうじ × TOMOt

葉蘭


ジョージ・オーウェルを読むのは初めてだった。彼のことを語った記述なら
いくらか読んだことがあった。それは『動物農場』、『1984年』、『カタロニア
讃歌』といった代表作を通じてのものだった。クセ球を得意とする変則的な
読者であるわたしはいつでもそうした王道には縁がなかった。裏道ばかりを
このんで歩いているとそれなりの臭覚が鍛えられてきて、さも常連客を装い
ながら初めての暖簾をくぐるかのようにしてわたしが手に入れたのは『葉蘭
を窓辺に飾れ』(彩流社/大石健太郎・田口昌志共訳)だった。

どうしてこうも今の自分の境遇に合致した作品とばかり出逢ってしまうのだ
ろうか。題名にある『葉蘭』というのは「花も咲かせず、可愛げのないしろも
のである。だが育てるには丈夫で、まったく手がかからない」植物のことで
あり「共稼ぎで家事に手を割く時間の少ない貧乏な中産階級下層の夫婦は
、概してこの葉蘭を部屋の色どりにする」(訳者あとがき)のだという。つまり
はこの物語はアパートの家賃はなんとか払えるものの、飲み代や煙草銭
には事欠き、いつも食費を削ったり外套を質に入れたりして生活をやりくり
しなければやっていけない生活者を描いた小説なのである。

人生の応援歌はいつだってなくてはならないけれど、こうしたお手本を目の
前にしてしまうとわたしは読み物にのめり込むのと同時に、自分の仕事を奪
われてしまったかのような焦燥を感じてしまうのだった。それでもやっぱり
ジョージ・オーウェルは市井の感覚を持ちあわせた理想的な作家であると
いう感慨を否定することはできない。その証拠にわたしは彼の作品を読み
進めながら顔をほころばせていることに自分で気づいてしまったのである。

わたしはあくせくと早急に階段を駆け上らなければならない。通過点でしか
ない到達点までわたしはいまだに達していないのだ。その場所はしかし決
して手の届かないところにある訳ではないのだという思いも拭い去ることは
できない。わたしはメジャーリーグのイチローにはなれないし、ボクシング
の内藤大助にもなることはできない。それでも物書きとして、いずれ活字に
なるであろう作品を書き上げることはできるのだ。

言葉を書き綴ることによって自らの首を絞めているわたしのような人間は、
ただ一点、その可能性を秘めているという不確定要素極まりない希望を持
つことによってのみ、他者より優位に立てるのだった。だがそうした優越感
はこの世ではなんの役にも立たなかったし、やはり自分を雁字搦めにして
しまいかねない危うさを孕んでいた。そしてもっといえば、活字となった書物
はその都度、チャールズ・ブコウスキーが遺言のように言い残したとおり
「――傑作はいつでも最新作」でなければならないのだ。

わたしは十字架を背負って果てしなく続く山道を登っている。頂上はガスが
かかって拝めないばかりか、きっとあの世にあるのに違いないはずなのだっ
たが、それでもわたしはよろめきながら、たどたどしい一歩を踏みこむことし
かできないのである。されど人に見えない物が見えるという煩わしさを、特権
でもって征服しなければならないのだ。

(文=いしがきゆうじ)
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by momiage_tea | 2009-06-18 20:37 | ゆうじ × TOMOt


モノ書き石垣ゆうじとモノ描きTOMOt「もみあげ亭」二人による気まぐれ日記


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