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『ぼくのともだちのはなし』

  そこまでひとりで歩いていった。
  木のあるところまで歩いていった。
  ぼくもひとりだったけれど、彼もまたひとりだった。
  彼って、木のことだよ。
  
  彼とはいつでも初対面の人と会うように、
  丁寧にあいさつをかわした。
  そうしないと彼は話してくれないから。

  どうしてあまり話さなくなったのか、
  いちどだけ教えてくれたことがあったっけ。
  それは単純なことだったけれど、
  どんな説教よりも教訓にみちていた。

  彼がいうには、そう彼がいうにはね、
  ぼくらが誰も話をきこうとしなかったせなんだって。
  ぼくらって、にんげんのことだよ。

  草むらのなかに石だたみの道が途絶えたところ、
  みえない垣根や柵をのりこえて、
  腹ばいになって塀をくぐりぬけてゆくところでは、
  ぼくも自然の一部になってゆく気がしたものさ。

  彼は、生いしげる葉の屋根で日ざしをやわらかくして、
  ぼくをやすませてくれた。
  いつまでもいさせてくれた。

  口をひらかなくても会話はできたし、
  お互いの考えていることはいわなくともわかっていた。
  ぼくは彼がすきだったし、
  彼もぼくをすいてくれていた。

  彼とはいつでも初対面の人と会うように、
  丁寧にあいさつをかわしたよ。
  けれども、別れるときには、
  つぎに会う約束もしないで、さりげなく別れたんだ。
  親友のようにね。

  彼は逝ってしまったよ。
  たぶん文明の進歩とやらに、
  殺されたんだとおもう。

  きっと彼は悲鳴をあげたはずだ。
  その声をきかなかったのは、
  こんどもぼくらのだった。
  ぼくらって、にんげんのことさ。
  ■
  (文=石垣ゆうじ) 
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by momiage_tea | 2007-06-29 14:03

『Sad Country Song』

 だれもが無邪気だったあの日々は過ぎ去り、
 ぼくは未だ明けぬ夜を彷徨い歩いている。

 そんな夜から逃げ出したくて、
 荷物も持たずに駆けだした。

 カントリーソングと月灯りに照らされて。
 きみをひとりきりにして、ぼくはここで何をしているのだろう?
 
 甘えた膝枕のぬくもり。
 立ち去る部屋にきみの残り香がかすかにかおる。
 
 メロディとメモリー。
 きみと聴いたあの日の歌が、ラジオから流れてくる。

 強がるきみのこころの傷を、
 癒せるならば・・・・・・。

 ぼくを待ちくたびれたきみを、
 こんどはぼくが待っている。

 二度と出逢わない物語を一冊傍らに、
 人生の皮肉さを学ぶ。
 ■
 (文=石垣ゆうじ)
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by momiage_tea | 2007-06-27 14:36

『Listen To The Radio』

 ラジオから流れでてくる音楽には、人肌のぬくもりがある。
 ただ聴く歌とラジオをとおして聴く歌とでは、まるで歌がちがうのだ。

 音楽と町とそこに住む人びとをよくよく知りつくしたラジオ局の
 ディスクジョッキーがかける、雨の日の雨の歌。
 
 そこには、どんなにじぶんのためにしつらえた愛蔵盤の云われ
 にもない、あるひとりの人間の生き方の断片が、分厚い哲学書を
 あざ笑うかのごとく、たしかに存在しているのだ。

 それは、ささやかで慎ましやかな、目立つことを怖れるようにして
 泡立つさざ波だ。

 恋に恋破れた者の失意の歌、
 ちいさき町の土曜の夜の、小さき町の土曜の夜の歌、
 澄みきった日曜の朝の教会の歌、
 だれもが通り過ぎてゆくだけの町に暮らす、
 わたしにとってすべてでしかない町の歌。
 そして、労働者賛歌。

 あるいは、旅立つ物の歌と逃避行を逃げ去る者の歌はちがうように、
 死者の歌と死者を弔う歌はちがうのだし、流れ者と西部劇の無法者
 の歌はちがうのだ。きみとぼくのように。

 あくまで人を励まし、いたわりの感情と尊厳を取り戻し、
 見えないものを見えないままに、肌ざわりの魔法を回帰させ、
 やさしさがもつ非情さと冷徹さを強いた愛情とを、
 わかる者にも、わからない者にも、
 そして、わかりすぎる者にも平等にその歌はささやきかける。

 そうして、お気に入りのラジオ局に周波数を合わせるのよりも容易く、
 その歌のメロディが、歌詞が、声が、ノイズが、
 いまそこに生きる者の人生を、そっと分かち合う。

   青い鳥が飛んでゆく
   あなたのこころを飛んでゆく
   ふかい悲しみのタガが、
   川の流れを堰き止めてはならぬように、
   涙の粒がわけもなく流れ落ちてゆく

 どうしようもないとき、人はラジオをひねる。
 あたかも最期の瞬間を受け入れた老人の、
 おだやか顔して。

 音楽は、とりわけラジオから流れでてくる歌のなかには、
 はるか彼方の愛しき人を、こころのかよう距離にまで
 縮めてくれる何かがあるのだ。

 そうでなければ、人はラジオになど耳を傾けないし、
 こころをひらくこともないだろう。
 ディスクジョッキーは求人票を熟視せざるを得なくなり、
 そうなればきっとわたしたちの多くは、
 こころを餓死させてしまうにちがいない。

 そんなことがあってはならない。
 けっしてあってはならない。
 ■
 (文=石垣ゆうじ)
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by momiage_tea | 2007-06-26 14:07

『言葉の如く、』

 「ルイジアナで一本の樫の木が生えてるのを見た」とき、ホイットマンは
 「おれにはとてもできやしない」とその心情を吐露します。その孤独な木
 は「荒野にひとり輝きを放ち、近くに友も恋人もいないまま一生元気な
 葉を生やして」立っていたといいます。

 故郷に戻り、この土地にしっかりと根を張る一本の木という生き方を選ん
 だぼくには、飯野友幸訳(光文社古典新訳文庫:『おれにはアメリカの歌
 声が聴こえる――草の葉』)によるこの一遍の詩が、なまりの枝葉をもっ
 た木のようにずっしりと重苦しく、悲壮な雨にさらされた気分になることを、
 正直に自白しなければなりません。

 けれども思い出して、長田弘のエッセー集『アメリカの61の風景』を捲り、  
 有島武朗訳(岩波文庫:ホヰットマン詩集『草の葉』)で引用された、おなじ
 詩の言葉を、字引くように呼吸しなおしてみると驚きます。まるでこころの
 持ちようがちがった言葉となるからです。

 原文の“ uttering joyous leaves ”を飯野友幸は「青々とした元気な
 葉を生やしていた」と訳しますが、有島武朗は「言葉の如く、歓ばしげな暗
 緑の葉を吐いていた」と訳すのです。

 これはどちらが優れ、どちらが劣るという問題ではなく、読み手がその言
 葉といつ、どこで出逢い、そのときどう感じたかという、言葉の手渡され方
 (受け取り方)の差異だと思うのです。幸いなことにぼくはす寸手で、ホイッ
 トマンのうたった詩から、じぶんにとっての価値――勇気を誤差なく得るこ
 とができたのでした。

  “ ルイジアナの大きな木が木の下にたたずむものに質すのは
    「みずから問う」という生き方の姿勢だと、ホイットマンは言う。
    ホイットマン自身、その詩を読むものに、みずから問うという
    姿勢をもとめる、大きな木のような存在を生きた詩人だった ”
    ――と長田弘はいいます。

 しかし「おれにはできやしない」(飯野訳)と吐き棄てたホイットマンに質され、
 それでもぼくは「言葉の如く、歓ばしげな葉を吐く」孤独な木という生き方を、
 日々の暮らしに貫くことを選びとることしかできないのです。
 ■
 (文=石垣ゆうじ)
    
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by momiage_tea | 2007-06-25 17:50

『朝のうた』

  夜はゆっくりと、
  そしてあっという間に明けてくる。
  人っ子ひとりいない坂道を
  ひそやかにのぼってくる。
 
  明けきらぬ朝を、
  眠気まなこのネズミをくわえ、
  カラスが飛んでゆく。
  夜間勤務明けのとびっきりの朝食。

  まだ寝静まったままの小径では、
  小鳥たちもご機嫌で、
  朝のあいさつをせがみに
  肩口まで寄ってくる。

  半熟の真っ赤な太陽が、
  怠け者をはずかしめ、
  インクの香りたつスポーツ新聞を手にした男を
  居間へと追いやる。

  そんな男がまっさきに眺める占いよりも
  確かなものがあるのだと、
  半熟の真っ赤な太陽は
  ささやきかける。

  誰よりも早い朝をおきて、
  朝のうたを聴けばよいのだと。
  ■
  (文=石垣ゆうじ)
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by momiage_tea | 2007-06-23 15:01

『ネーサンとビッグジョンとおひさま』

  ネーサンはおもい病気でした。
  病名はわかりません。 ときどきあたまがいたくなったり、
  ベッドからおきあがれなくなることさえありました。

  そんなとき、西へとむかう貨物列車の汽笛が
  「ふぁぁあん」と、とおくでなるのをきくと、
  ネーサンはその貨物列車にとびのりたくて
  たまらなくなるのでした。

  けれども、ぐあいのおもわしくないネーサンは、
  すっぽりと毛布をあたまからかぶって、
  しずかにすすり泣くことしかできません。

  そうしてネーサンはふさぎこむ日がおおくなりました。
  おひさまをみるのも、うとましくてたまりません。
  毎朝、「おはよう」とあいさつしてくれるおひさまにも、
  ネーサンはしらぬ顔をよそおうのでした。

  ネーサンがすきなのは、
  部屋からみえるいっぽんの木だけでした。
  その木の名はビッグジョンといいます。

  ネーサンはおひさまがビッグジョンのせなかに
  かくれてしまうころになると、ようやく安心するのでした。  
  
  ネーサンはいつのまにかねむりにおちていました。
  やがて、「びゅうびゅう」と風がふきあれ、
  「がたがた」とまどガラスがふるえだしました。

  ネーサンがめざめたときには、
  あたりはくらい雲におおわれていて、
  おひさまのすがたはどこにもみえませんでした。

  けれどもネーサンのこころはしずんだままです。

  まどのそとでは、
  ビッグジョンがなぐりかかってくる雨風に
  身をよじらせ、けんめいに嵐をしのいでいます。

  ネーサンはビッグジョンの根っこが
  もげてしまわないかと、
  たいそう気をもみました。

  この日はついに、貨物列車の汽笛はきこえてきませんでした。
  けれども、かわりにきこえてきたものがあります。
  それは声でした。
  
  ベッドにもぐりこんでいては、
  けっしてきくことのできない、
  ビッグジョンの声だったのです。

  『ネーサン、おいらがおひさまにあわせてあげるよ』
  雨風をぬぐおうともせず、ビッグジョンはいいました。
  『きみを元気にしたいんだ』

  ネーサンはだまったまんまでした。
  《どうしてさ。ぼくはおひさまになんてあいたくないんだから・・・》
  ネーサンはおもいました。
  《それに、じきに夜になってしまうじゃないか》

  ビッグジョンはすっかり葉っぱをなくしてしまいました。
  けれども、のっぽないっぽんの木をゆさぶったのは、
  嵐なのではありません。
  ビッグジョンがじぶんでそうしたのです。

  ビッグジョンはじぶんのからだをホウキぼうにして、
  ネーサンのためにちからいっぱい空をそうじしたのです。
  それは、千人力のおおしごとでした。

  さいしょは「ざっざ」と、しまいには「さっさ」と、
  あますところなくていねいにはきました。
  
  みるみるうちに、あつくたちこめていた雨雲は
  どこかへちってゆきました。
  そしてやはり、ビッグジョンの葉っぱもまた、
  どこかへちってゆきました。

  ネーサンはそんなビッグジョンのすがたをみると、
  いたましいきもちになるのでした。

  やおら貨物列車がむかうのとおんなじ西の空からは、
  ほっとしたおももちのおひさまがあらわれたのでした。
  
  おひさまは、ネーサンによびかけます。
  『やあネーサン、あの貨物列車がどこへゆくのか、しりたくないかい?』

  『なんだって?』
  ネーサンはベッドのうえでとびはねました。
  そのままよろこびいさんで戸口へかけでると、こう返事をしました。
  『おしえておくれよ。あの山のむこうにはいったいなにがあるんだい?』

  ネーサンのあたまのいたみはどこかえ消えうせてました。
  そうしてポーチのへりにしっかりとたち、
  おひさまと約束さえかわすのでした。

  あすの朝いちばんに、
  部屋からみえるいっぽんの木のしたで、
  貨物列車がどこまでいったのか、
  おひさまにおはなしをきかせてもらうのです。
 
  ビッグジョンは葉っぱのない枝から、
  「ぽたりぽたり」と
  なみだのようなしずくをしたたらせて
  そのようすをみまもっていました。
  
  けれども、ネーサンの顔に、
  おひさまにも負けないあかるさがもどったのをみて、
  うれしくてなりませんでした。

  そして、
  ビッグジョンにはうれしかったことが
  もうひとつありました。
 
  それはネーサンがいたわりのことばをかけてくれたからです。

  『ビッグジョン、きょうはぼくのためにどうもありがとう。
   今夜はゆっくりとやすんで、あしたはいっしょに
   おひさまのおはなしをきこうね』

  ■
  既発『ネーサンとビッグジョン』から改編および改題。
  (文=石垣ゆうじ)  
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by momiage_tea | 2007-06-22 19:08

『ヨゼフ物語』④

 ある晴れたやわらかな午後だった。ヨゼフは押し寄せる強風に翻弄され
 ながら、必死にペダルをこいでいた。一心につづくサイクルロード。その
 右手にはゆったりと大河が流れ、左手にはただひたすら稲田がつづく
 ばかり・・・・・・。青々と、そして黄金色にやさしく稲穂がそよいでいる。
 それが詩でないというなら、いったい何だというのか?

 やがて最後の橋がみえてきた。橋の上はすっかり長距離トラックの渋滞
 が占拠している。まるで町から町へ移動をくりかえすサーカスの一座だ。
 ヨゼフは橋にとさしかかると、ひとりのトラック運転手に「やあ」と手をふっ
 た。すると退屈しのぎの景気づけとばかりに、そのトラック運転手は「ボッ
 ボー」と警笛を鳴らしてよこすのだった。そうしてその響きはみるみるドミノ
 倒しのように連鎖し、ある者は陽気に「ホーボー」と、ある者は呪わしげに
 「ブゥドゥー」と鳴らすものさえいた。

 いよいよだった。ぺトコフは「この世の果て」といったけれど、どうだろう、
 この海ときたらどこからどうみても「パラダイスじゃないか!」 ヨゼフは
 思わずうっとりとせずにはいられなかった。黄色やムラサキの花が波風
 の吹くのにまかせて咲きひろがっている。そのさりげなさが詩でなかった
 ら、何なのだ? 防風林の茂みのどこかで小鳥たちが歌っている。その
 さえずりは山の手の小鳥たちよりもずっとおおらかで、どことなく律儀な
 印象さえあたえるのだった。

 10日前にはサファイアのようだった波が、きょうはにごり、鼻をつく汐の
 匂いが浜辺を支配していた。雨がちかいのだった。かといってそれがどう
 したというのか。ヨゼフは視界のゆきわたる先の、そのまたむこうにまで
 つづく浜辺にこころをうばわれた。英気がみなぎってくる。そう海はこころ
 の滋養なのだ。

 ヨゼフが波打際を歩いてゆく。ビーチはほとんど無人だったが、空はせわ
 しなかった。監視用のヘリコプターがときどきやってきて、物騒に上空を
 飛びまわっていた。ブルーへイズ(靄)にかすんだ砂浜の最果てでは、
 極秘に円盤が製造されているともっぱらの噂であった。けれどもヨゼフは
 この海――パラダイスにUFOを見にやってきたわけではなかった。詩を
 見にきたのだ。

 その昔、ヨゼフはこの浜辺で手紙のはいったボトルを拾ったことがある。
 それはたった一言のフランス語で書かれたものだった。ヨゼフはフランス
 語は読めなかったけれど、添えられたイラストから察するに「クソッタレ」
 と書かれているにちがいなった。ヨゼフはどうにかしてその手紙をヘリコ
 プターの操縦士に手渡せないものかとしばし思いをめぐらせていた。

 いささか熱中症にやられ、かすんだ目をごしごしこすりながらヨゼフが
 ビーチの入口へ引き返してくると、遊泳禁止区域では、5~6人のサー
 ファーたちがあてどなくじぶんの波を待っているのが見えた。彼らの姿
 には遠巻きにも疲労の色はなく、むしろ詩の次の一行を待っているという
 意味では、ヨゼフのほうがとうに待ちくたびれているのであった。
 ■
 (文=石垣ゆうじ)
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by momiage_tea | 2007-06-20 12:57

『ヨゼフ物語』③

 魚のかたちをしたウロコ雲が何匹も、夕映えの空にほどよく焼かれるに
 まかせて漂っている。『こいつはたいしたご馳走だ。お月さんの雫をしぼ
 って食べるんだもの、さぞかしうまいんだろうな』どちらかといえば魚党
 のヨゼフは思った。『クジラよりもでっかい胃袋の持ち主は夜の闇だった
 ってわけか!』

 ひろい川にかかるおおきな橋を、ヨゼフは時間をかけてわたっていた。
 川面がピンク色にそまってゆくのと、おいしそうな焼魚の浮かぶ空とを交
 互にたのしみながら、『もしもみんなが寝静まった頃に、夜闇がゲプッと
 やったら、地球のこっち半分の人間どもはさぞかし大騒ぎになるだろうな』
 と愉快にひとりごちるのだった。

 ヨゼフがご機嫌なのには理由があった。街の裏通りのひとつにある穴場
 としかいえないカフェの帰り道。空き家だった建物の1階に、おもちゃ屋さ
 んがあるのを発見したのだ。その店は“おもちゃコンサルタント”のいる店
 だった。ヨゼフはそんな資格があることも、そんな資格を認定されている
 人物がいることすらも知らなかった。

 けれども、とヨゼフは思う。『遊びの栄養士はじぶん自身ってことでおいら
 は結構さ』 ヨゼフはひととおり世界のおもちゃ――チェコ製クマのロッキ
 ングチェア、ドイツ製キッズ用ハーモニカ、ビー玉がおちると音のする、ス
 イス製からころツリー・・・・・・などなどを見て回ると、中古絵本コーナーで
 じっくり吟味に入り込むのだった。

 手にした絵本をめくりながらヨゼフは、ある詩人のいった言葉を思い起こ
 していた。 “――それは、むしろ大人になってからこそ、よくよく読みなお
 すべき子どもの物語と言ったほうがいいかもしれない。その物語には、人
 が大人になると、じぶんでは無くしたことに気づかないでいることが、ぜん
 ぶ書かれているからだ。” なるほど、とヨゼフは思う。

 ヨゼフはとっくのむかしに神の存在をあきらめている人間のひとりだった。
 それに、神さまに直接お会いするよりも、神さまを身近に感じることのほう
 が大事に思えた。では、どんなときに神を身近に感じるのだろうか。それが
 いまだった。ヨゼフはじぶんのこころの発育にふさわしいだろう一冊の絵
 本を選びとると、おもちゃ屋さんのキャッシュレジスターが気持ちよさげに
 「チリリン」と鳴るのをきいた。

 ひろい川にかかるおおきな橋をわたりおえたとき、ヨゼフは目をつむった
 ままの散歩をあるく、一匹の老犬とでくわした。はじめてみるその老犬の
 名まえを、ヨゼフはよむことすらできた。けれどもそうはしなかった。ただ、
 「あいつの名まえはトトではないな」ということだけはわかった。すっかり
 焼魚を平らげた宵闇の空には、ちらちらと星がひとつまたたいていた。
 ■
 文中、“――それは・・・・・・ぜんぶ書かれているからだ。” の引用は、
 長田弘『アメリカ61の風景』(トム・ソーヤの塀)による。

 (文=石垣ゆうじ)
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by momiage_tea | 2007-06-19 12:11

『こみちのネコ』

  おかの教会へとつづく、ゆるやかなこみちがありました。
  タクトはこのこみちをとおるのがすきでした。
  まがりくねった、そのせまいこみちをゆくと、
  いつでもこころがうみのようにひろがってくるからです。

  タクトはゆっくりと、こみちをすすんでゆきました。
  すると、こみちをのぞきこむようにしてたつ、
  2階だてのいえのまどから、とつぜん声がしたのです。

  『こみちのまがりくねったそのさきに、なにがあって
   どこへゆけるのか、 あなたしってるの?』

  タクトはいきなりつきつけられてこまりました。
  たずねてきたのは、いっぴきのネコでした。

  なんどもゆききしていたこみちですから、
  タクトはとうぜん「こみちのさきに、なにがあって
  どこえゆけるのか」しっていました。

  けれども、白と黒のおしゃれもようのそのネコに
  しっかりとみつめられると、
  ぼくはほんとうにしっているのだろうかと
  ふあんになってしまいました。

  すっかりだまりこんだタクトをみて、
  ネコはせきをするように『クスッ』とあざけりのわらい
  をもらすのでした。

  タクトははずかしさをかくそうとして、ききかえしました。

  『じゃあキミはしってるというのかい。
  こみちのまがりくねったそのさきに、なにがあって
  どこへゆけるのか、ネコさんはしってるというのだね?』

  『ふん、しってるわよ。しってるにきまってるじゃないの』

  『でもキミは、その部屋からでたことがないのでしょう?』

  『ないわ。でもしってるの。あのこみちのあちらには、
  あたしがむかしくらしていたまちがあるんだから・・・』

  ネコはつづけました。
  『あっちが過去なら、こっちは未来よ』

  いぶかしげな顔をして、タクトはたずねました。
  『いったいどんなところなんだい。きみの未来ってのは?』

  いったそばからタクトは、きいてはいけないことを
  きいてしまったような気がしました。

  『とってもすてきなところよ』
  パチリと、ひとつまばたきをしてからネコはこたえました。
  『だって未来のことをかんがえると、
  わくわくしてくるんですもの』

  『そうかなあ。ぼくは未来のことをかんがえると、
  しんぱいでたまらなくなるけどなあ・・・』
  そういってタクトがためいきをつくと、
  ネコはこういうのでした。

  『あなたじゅんびはしているの?』

  『えっ、じゅんびってなんだい?』

  こんどはネコがためいきをつくばんでした。
  『あたしはまいにちこのへやで、
  あたしの未来へたびだつじゅんびをしてるのよ』
  
  そうして、じぶんのあんよを「ぺたひた」となめながら、
  『もう、あたしのこころも、カバンもはれつしてしまいそうなくらい
  ぱんぱんにふくらんでるの。おいていくものをかんがえなくては
  ならないぐらいなんですからね』
  と、とくいげにはなすのでした。

  『じゅんびなんてしなくても、
  いやでも未来はやってくるんじゃないのかい?』
  タクトはそういうと、またすぐにそんなことはいわなければ
  よかったとこうかいするのでした。

  ネコはなにもこたえませんでした。

   けれども、
   《だったらどうしてこのこみちはあるの? 
   あなたはここをとおってどこへゆくつもりなのかしら?》
   という、ネコのこころの声がきこえてくるのでした。

   『もしも・・・もしも過去へもどりたくなったら、どうするんだい?』
   うつむきながら、タクトはしずかにきりだしました。
   『さきにすすみすぎたら、むかしくらしていたまちには、
   もうかえってこられなくなるんじゃないかなあ・・・?』 

   『そんなことないわ』
   ネコはきっぱりといいました。
   『きょういちにちを、しっかりじぶんにきざみこむことができれば、
   きのうにだって、おおむかしにだって、いつでもかえれるのよ』

   タクトはすこしほっとしました。
   そうして口をひらこうとすると、
   ネコはさえぎるようにしてはなしをつづけました。

   『でもね、未来はただまっているだけではやってこないの。
   しっかりじゅんびをして、みじたくをととのえておかなくっちゃ、
   おもいえがいたばしょへは、けっしてゆけないんですから』

   タクトはまたしばらくだまってしまいました。

   ネコはそんなタクトのむねのうちをみすかすように、
   朽ち葉いろの目をカッとみひらいて
   さいごにこういうのでした。

   『いいこと、未来にはふたつあるの。
   のぞんでいた未来と、のぞまなかった未来がね。
   そのどちらにゆくかは、あなたしだいってことね』

   あたりは日がくれかかっていました。
   こみちをとぼとぼとひきかえしてゆくタクトの背後では、
   月あかりをあびた教会の十字架が、
   うっすらとあおじろくうかびあがっているのでした。

   ■
   (文=石垣ゆうじ) 
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by momiage_tea | 2007-06-18 20:23

『6月のおひさま』

  庭先に敷物をひろげて、青空のもとに寝転んで、
  つよいものたちの視線にじぶんを曝けだしてみる。

  すると、閑静な山あいの一軒家というのは大間違いなのだと、わかる。
  この身ひとつでは、とんでもなく物騒で、あぶなっかしい世界――。

    蜘蛛に見張られていた。
    鳥たちは連綿とあけっぴろげなうわさ話をはじめ、
    赤褐色の山アリは怪物の目をして迫ってくる。
    ミツバチはかまわず蜜をくすねてまわり、
    蝶はそのうつくしさをひけらかす。

 L字型のかわら屋根に画された空は、狭くて無限だ。
 雲は姿かたちを変えては現われ、そのつどおひさまを持ち逃げした。

 けれども、おひさまは6月の空に居留守することはなく、
 霞のナイトガウンを羽織ったまま、なんどでも奥から姿をみせた。
 ■
 (文=石垣ゆうじ)
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by momiage_tea | 2007-06-16 14:46 | 石垣ゆうじ


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