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『ある日の手紙』 

里山さんへ

――突然ですが絵本はいいですね。ぼくは漁るようにして絵本を
読んできた経験はないし、それこそコレクションは数冊しかないの
だけれど、なにしろ絵本的な思考というものに魅力を感じるのです。

前にも書いたけれど、ぼくが絵本の物語をつくるときは、いつでも
お得意様である子どもたちに向けて書いている、という訳ではない
のです。勿論、子どもたちにも届けばいいとは思うけれども・・・。

こうした感情の起源(一種ぼく自身が絵本に対して抱いていたコン
プレックス)は、子どもたちばかりでなく大人に対しても向けられて
いる。なぜか?

その疑問を見透かすようにして、詩人の長田弘さんが、ある新聞
記事のコメント「――子どもの本は大人にとって、いま現実逃避の
場として求められ、受け入れられている――」にこう反論しています。

長田さん曰く「・・・もし苦境にぶつかって、(大人が)子どもの本に目
が向くとすれば、それは現実逃避のためでなく、自分の心の空白に
気づいて、子どもの本の経験の欠落を感じてだと思う。子どもの本
が読むものにくれるのは、胸の心棒になる理想主義であって、敗北
主義とは違うからです――」(『子どもの本の森へ』)

そうなのです。仮に子どもに向けて物語をつくったとしても、ぼくには
それが子どもたちへの「媚び」であるように思えてなりませんでした。
飼主にじゃれつく忠犬を、しらけた面持ちで眺めやる草葉の陰のネコ
の気分とでもいいましょうか・・・。

だからといって現実逃避する大人に向けて書くのでもない。そうでは
なくて、「自分の心の空白」を埋めたり、「胸の心棒」になるものを見つ
けだそう、取り戻そうとする行為がぼくにとっての絵本(物語)づくりの
出発点だということです。そのことをぼくは長田弘さんから教わった
のです。

(文=石垣ゆうじ)
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by momiage_tea | 2006-07-31 09:49 | 石垣ゆうじ

『原稿用紙の裏』 (7月23日)

【秋場所や 稽古の甲斐を かくは見せ (――久保田万太郎)】

大相撲名古屋場所が終わった。まったくもって腑に落ちない千秋楽であった。
横綱昇進を期待されていた大関白鵬は、きのう優勝を決めた横綱朝青龍の
全勝優勝を阻止。昇進の条件とされた13勝目(=優勝に準ずる成績)を挙げ、
あとは天命を待つばかりの身であった。

しかし、取組み後に発表されたのは「横綱昇進の見送り」であった。横綱昇進
が現実のものとなるには、まず審判部が全員一致で賛同した上で、場所後3
日以内に開かれる番付編成会議で推挙され、理事会で満場一致の賛同を得
なければならない。

つまり今回は、理事会の招集を要請する以前に、審判部が「横綱昇進を見送」
ったのである。事実上、審判部が横綱昇進を認めた時点で、新横綱の誕生は
既成の事実となる。だが、最終的な決断までにはさらなる議論の余地があっ
たということもまた事実なのだ。

では今場所の白鵬の成績と活躍は、いきなり横綱昇進の話題が立ち消えにな
るほど取るに足りないものであったのか。横綱になる条件はこうだ。大関の地位
で二場所連続優勝するか、これに準ずる好成績を残し、さらに「品格・力量が抜
群」と評価された場合――。

 過去の白鵬の成績は下記のとおり。

   春場所(1月) 13勝2敗
   大 阪 (3月) 13勝2敗
   夏場所(5月) 14勝1敗【優勝】
   名古屋(7月) 13勝2敗

 (品格・力量:ともに申し分なしと断言する。)

「見送り」を決めた放駒審判部長(元大関魁傑)はいった。「横綱を独走させたの
はマイナス(の印象)」だったと。そして「14日目で優勝を決めた横綱を倒しての
結果(1勝差)は、はたして優勝に準ずる成績といえるのかどうか」疑問なのだと。

しかし、である。13日目終了時点で優勝の可能性があったのは13戦全勝の横
綱朝青龍と、2敗の白鵬と玉乃島(前頭)であった。14日目に朝青龍と白鵬が対
戦し、白鵬が勝てば、優勝は千秋楽にまで持ち越されていたのだ。

仮に千秋楽に白鵬が勝ち、朝青龍が負けると共に2敗となり、賜杯の行方は優勝
決定戦にまでもつれこむ可能性も秘めていたのである。白鵬の横綱昇進の問題
がなくても、相撲ファンとしては千秋楽まで優勝力士が誰になるかと予想するのが
この上ない楽しみであったはずだ。場所への興味は絶対に千秋楽まで維持される
べきであった。

「たら、れば」の無意味な夢想をしている訳ではない。なにせ場所への興味を演出
する役割を果たす取組を作成するのは、審判部長・副部長と審判委員で構成され
る「取組編成会議」で決定されるからだ。

「取組編成会議」は初日と2日目をのぞき、すべて取組の前日に決定される。場所
の終盤の取組みはふつう番付順に決定されるため、通常であれば横綱朝青龍と
正大関白鵬の対戦が千秋楽に組まれるのは必然であった。

だが、「取組編成要領」第六条には、“取組は、段階別に番付順位により編成する
ことを原則とする――”につづき“――ただし、下位の力士をその成績により横綱、
大関と取り組ませることができるものとする”と明記されている。

ということは、14日目全勝の朝青龍には、直接対決の結果いかんで優勝の可能性
(と権利)のあった2敗の白鵬をもってくるのが「取組編成会議」の果たされるべき絶
対の仕事であったはずだ。なのに放駒審判部長は、自らの重大なミステイクを棚に
上げ、「横綱を独走させた」責任を白鵬に転嫁したのだ。

「千秋楽の内容を見てから・・・」という声があった。結果は優勝を既に決めて気持ち
の「萎えた」横綱ではなく、15戦全勝を目論む大横綱朝青龍の野望を上回る、気迫
の、全身全霊を信条とする相撲――がっぷり四つに組み、互いが釣り合う近年稀に
見る熱戦――まさに力と気魂が漲る相撲史上に残る名勝負を、見事に制して大関
白鵬の勝ち・・・・・・。

放駒審判部長はあらゆる点で能力に欠ける。責任を問われるべき確信犯だ。千秋
楽まで含みをもたせ、その僅かな望みをあらん限りの成果で自分のものとした白鵬
を無礼なまでにコケにした。言葉は悪いがそれは事実だ。ファンを裏切り、優勝した
横綱の顔にもドロをぬったのだ。

白鵬は遅かれ早かれ横綱になる。それも大横綱に。この挫折と試練をきっと乗り越
えるだろうといわれている。そうだろうか。横綱は神だというが、地位は神でも相撲を
取るのは人間なのだ。挫けもすれば、自暴自棄になるかもしれない。大ケガをすれ
ば即刻引退だってありえる世界だ。

もうこれくらいにしておこう。今後しばらく、ぼくは「反」相撲協会の立場をとる。白鵬
の横綱昇進「見送り」の問題だけがそうさせるのではない。いま相撲を甘やかして
見ると、相撲がダメになってしまうからだ。

もうひとつ、ぼくは宣言する。九月の秋場所ではこの悔しさを胸に秘め、大関白鵬
が優勝と横綱を掴み取ることを。そうして、東京両国国技館の千秋楽。9月24日の
日曜日、隅田川に秋風そよぐ夕暮れに、ぼくは白鵬とともにうれし涙を流すのだ。


(文=石垣ゆうじ)

(・・・・・・)いま「教育」という言葉からは「教える」ことだけが残り、「育てる」という
意味合いが著しく損なわれているという。長いあいだ相撲の世界を見ていると、
今回と同様のケースで横綱昇進を見送られたのは、なにも白鵬ばかりではない
ことが思い起こされる。

その中には千代の富士や貴乃花のような大の字のつく横綱も含まれている。
いずれも本人の努力でそうなったのであるが、「見送り」という挫折・屈辱・試練
が、いい経験・教訓となったという見方も否定しきれない。

だが、過去の成績や年齢や将来性、土俵内外での人格やどひとり横綱の時代
がつづいた相撲界の今の状況を鑑みるとき、白鵬ははやい時期に横綱に昇進
させて、「育てて」いく方が相撲界にとって得策であると思えた。

横綱の地位の力士に対しても「育てる」ことは可能であるし必要なことだと思う。
今回の「見送り」に関してぼくは、「育てる」「育む」こころをなくした教師(審判部)
が、勝手に解釈して間違った「教え」を生徒(白鵬)に強要しているようにしか見え
なかったのである――。
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by momiage_tea | 2006-07-23 21:28 | 石垣ゆうじ

『原稿用紙の裏』 (7月18日)

【露鵬の暴力事件にみる、愚かな日本人】

ロシア出身の関取、露鵬がカメラマンにケガを負わせた事件
の報道をみていると、つくづく日本人の根底にある根強い偏見
を思い知らされる。

大相撲名古屋場所の7日目、大関千代大海と平幕の露鵬の
対戦。一気に土俵下に露鵬を押し出した千代大海は、そのま
ま露鵬とにらみ合いを演じ、大関千代大海の方が先に「なんだ
コラッ」と暴言を発した。

伏線はあった。お互い激しい突き押しが得意な力士だ。加えて
露鵬は、かつて横綱朝青龍との稽古中に横綱の顔に張り手を
いれ、賛否両論の物議をかもしたとおり「土俵上では先輩も後
輩もない」という考えの持ち主である。

この日も、地位が上の大関に張り手をかました。あっけなく返り
討ちあった露鵬に、千代大海は手を差し伸べたとされるが、テレ
ビ桟敷で観戦していたぼくには、それは確認できなかった。

むしろ、大関の方が負けた露鵬を執拗に睨みつけていたように
も見える。露鵬も睨み返したため、キレた大関が「なんだコラッ」
となった訳だ。

「礼にはじまり礼におわる」のが相撲だ。勝負がついたらいかなる
感情をも胸に仕舞いこまなければならない。露鵬がカメラマンに
手をあげたのが、審判部から厳重注意を受けた後だったことから
も、3日間の出場停止処分が軽すぎると判断されても仕方がない。

(露鵬は取組み後、千代大海を風呂場に待ち伏せて、「俺にコラと
いったなコラッ」と喰いかかり、風呂場の窓を叩き壊してもいる)

露鵬のしたことは罪だ。けれども、この事件を報じたテレビの司会
者とニュースキャスター(別々の番組)は共に、「外国人は――」と
いう言い方をした。ぼくは腑に落ちないものを感じた。

片や「外国人は武道精神なんてわからないんじゃないの?」片や
「外国人は相撲道を理解していない――」とおなじ趣旨のことをい
いはなった。ならばあなた方は「武道精神」も「相撲道」も理解して
いるというのか。教えて欲しい。

夏目漱石は『我輩は猫である』のなかで、「だれも口にせぬ者はな
いが、だれも見た者はない。だれも聞いたことはあるが、だれも会
った者がない。大和魂はそれ天狗の類か」と著している。

「武道精神」「相撲精神」の本質を問う前に、ひとりの人間の犯した
罪を問うべきである。仮に外国人が「相撲精神」や礼節というものを
理解していないのであれば、師匠や協会関係者、まわりの力士たち
の指導不足をこそ問うべきである。

第一声で「外国人――云々」となるところが、いかに日本人が相手を
敬う「相撲道」の精神を欠いて、思いあがっているかを証明していた。


(文=石垣ゆうじ)
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by momiage_tea | 2006-07-18 15:50 | 石垣ゆうじ

『原稿用紙の裏』 (7月17日)

【人はかつて樹だった・・・】

長田弘さんからのもっとも新しい贈り物は、この7月に
出版されたばかりの詩集『人はかつて樹だった』(みす
ず書房)である。

「人はかつて樹だった」と長田さんはいう。「だが、今日
もはや、人は根のない木か、伐られた木か、さもなけれ
ば流木のような存在でしかなくなっているのではないか」
(あとがき)と問う詩人の声に、そっと耳を澄ます。

この一冊の詩集を手にしたのは帰省先である仙台駅前
の本屋でだ。久しぶりに帰った実家で、通いなれた馴染
みの喫茶店で、ページをめくる。じぶんはまだ根っこの生
えた一本の樹なのだということに気づかされる。

東京から帰るたんびに景色が変わっている。山のなか
の一軒家は、まだ静かだ。けれども地下鉄を通す工事
が始まれば、なにもかもが変わってしまうだろう。

近所のバス停留場は地質調査で立入禁止だった。かつ
ては子どもや学生の草野球のメッカだった空き地が、そ
のうちに地下鉄の駅になるのだ。

ここいらの樹が伐られたら、ノスリが、リスが、タヌキが、
ヘビが、キジが、カエルが、トンボがいなくなるだろう。
柿の木が、栗の木が、梅の木が、イチジクの木が死に
絶えるだろう。冬に氷柱が枝垂れることもなくなるのだ。

そしてここいらの樹が根こそぎ伐られて、丸裸にされて
しまったなら、ぼくも伐られて根っこも腐れて、流れ者の
流木になってしまうのだろうか。

自分たちの住む街を愛することが文化を生み、守ること
だという人がいる。その通りだ。でも、ぼくたちは変わるこ
とを恐れているのではない。問題は変わり方なのだ。■

(文=石垣ゆうじ)
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by momiage_tea | 2006-07-17 23:44 | 石垣ゆうじ

『原稿用紙の裏』 (7月16日)

【イタリアの黒い霧、晴れず】

ドイツワールド杯を制したイタリアにつきまとっていた
黒い霧は、ついぞ晴れることがなかった。

世界最高峰のサッカーリーグ、イタリア・セリエAの
選手によるドーピング疑惑の調査が、結果として史
上最悪の八百長事件へと発展したのだ。

クラブオーナー等による審判の不正指名や選手の
賭博が明らかとなって、ユヴェントス、ACミラン、ラ
ツィオ、フィオレンティーナのいずれの名門クラブも
厳罰を受けることとなった。

ACミランをのぞく3クラブは二部にあたるセリエBに
降格。勝ち点のマイナス可算を義務付けられたため
に1シーズンでのセリエA復帰は困難とされている。

欧州チャンピオンズ・クラブリーグへの出場権剥奪
や過去2シーズンの優勝の取り消し(ユヴェントス)
と、処分は重い。

これにともない莫大な放映権料の減収やトップレベ
ルでの試合を望む主力戦選手の大量移籍が懸念
されている。

と、ニュースで報じられていることをいちいち繰り返し
てみたが、あれほどの選手を抱えて、それでも不正
による勝利をもぎ取ろうとする強欲ぶりには失望だ。

ジダンの退場問題で浮上したマテラッツィの暴言は、
イタリアでなくても日常茶飯事であろう。世界のサッカ
ーは規模と内容の如何を問わず汚れているのだ。

かつて米国のメジャーリーグで選手によるストライキ
が起こり、その年のシーズン中止を余儀なくされたこ
とがあった。

選手が球団側に年棒アップを求め、交渉が決裂した
ことが理由であった。翌年再開したペナントレースに
は、しかしファンは戻ってこなかった。

選手を金の亡者と罵り、ファンは観戦拒否という権利
を行使した。メジャーリーグが、今日のファンの信頼
回復をさせたのは並々ならぬ努力があったのだろう。

イタリアのサッカーファンの心中はいかに? 不正を
憎まず、クラブへの厳罰を憎むとしたら、サッカーの
レベルは天下一品でも、イタリア人のモラルは最低
だといわざるを得ない。 ■

(文=石垣ゆうじ)
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by momiage_tea | 2006-07-16 19:08 | 石垣ゆうじ

『原稿用紙の裏』 (7月15日)

【サッカーについて考えることは喜びである。その③】

いまぼくは就職活動中のサッカー選手である。それでいて
所属することになるチームでは中心選手にも、控え選手に
でもなれる。すべては心もち次第だ。

選手としてやっぱり限界だというなら、クラブのオーナーや
監督にだってなれる。気分によってはグラウンドキーパー
にでも、トレーナーにも、道具係にだってなれるのだ。

オーナーだったら? どんなクラブにしたいかで、集める選
手の質が違ってくるだろう。強くて勝つことに喜びを見出すな
らば高校の友人に、グラウンドに立つだけで勝敗は問わない
のであれば中学の友人に声をかけるだろう。

クラブの規模や意味も本人次第だ。地域密着を狙うなら、
町内にビラをまくなりして、子どもから大人まで募集を募る。

グランドの確保、ナイター設備はあるのか。水溜りをどかす
ためのスポンジやライン引きも必要だ。救急箱の中身も吟味
すべきだろう。

そうしてたったひとりしかいないサッカーチームの未来をぼく
はぼくに託している。。世界地図をひらいて世界中の都市の
サッカークラブを夢想していた少年の日のぼくがここにいる。


(文=石垣ゆうじ)
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by momiage_tea | 2006-07-15 18:00 | 石垣ゆうじ

『原稿用紙の裏』 (7月14日)

【サッカーについて考えることは喜びである。その②】

もとが単細胞だから、ドイツワールド杯をみてるうちに気持ち
がはやってきた。老体に鞭打って現役復帰を目論んでいる。

はやりのフットサルはどうも性に合わない。接触プレーが禁
止されているので、英国の激しいサッカーが好きなぼくには
面白みに欠けるのだ。

いつの世もサッカーには瞬発系と持久系のどちらの要素も
求められる。だが、どちらかといえば持久系だと思っている
ぼくは、出番が多く、より瞬発力を求められるフットサルは
好かない。いや、もたない。

そもそもサッカーは外の広いフィールドでやるものだ。ちまち
まとパスを繋いだり、テクニックを駆使してロナウジーニョを
気取ってみても、だだっ広いグラウンドに蹴り放つ、一本のキ
ラーパスの醍醐味、あるいはそのパスに一心不乱に走りこむ
快感には敵わないのものだ。

問題はただひとつだ。縦横無尽にフィールドを駆け回るだけ
の体力があるかどうかだ・・・・・・。

ものは考えようだ。いまのところチームメイトも対戦相手も
いない身である。熱暑にやられた日本代表のようにはなり
たくないから、いまは専ら体力と技術強化の時期にあてる。

復帰は9月か10月を考えている。所属クラブを探すのも、
自分でチームを起すのもそれまでに準備すればよいのだ。

かつてはメジャーリーグに憧れて、ソフトボール・チームを
創ってリーグ戦に参加したこともある。プレーすることは勿
論だが、メンバー集めやユニフォームを決めるのは殊のほ
か魅力のある作業なのである。 ■

(文=石垣ゆうじ)
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by momiage_tea | 2006-07-14 17:10 | 石垣ゆうじ

『原稿用紙の裏』 (7月13日)

【サッカーについて考えることは喜びである。その①】

これほどまでサッカーとの関わり方を問われてくる時代もない。
ぼくは勝手にそう考えている。4年後の南アフリカで開催される
ワールド杯で、日本はいかなる成績を収めるのか。

ドイツ同様目も当てられぬ惨敗に終わるか、決勝トーナメントを
勝ち進み旋風を巻き起こすのか。そもそもアジア予選を勝ち抜
けるのだろうか。すべてはサッカーを愛する人々の、サッカーと
の関わり方が問われてくるのである。

試合の内容やおかれるチームの状況により反応も異なるが、J
リーグのクラブを応援するサポーターという立場ならば、ただ呑
気にゲームを観戦するだけでは済まなくなる。

選手がうまく闘えるように文字通りサポートしなくてはならない。
必要であれば、ベンチに選手交代を促し、大事な時間帯では
攻めるべきか守るべきか選手に気づかせてやる。もちろん戦況
を占うには監督並みに相手チームを研究してなくてはならない。

審判のミスや相手の反則による不利には、あらん限りの圧力で
不満と再発防止を訴える。辛くても、味方選手に叱責や罵声を
浴びせてやることも忘れてはならない。サポーターならば・・・。

喜びも哀しみもサッカーがもたらしてくれる。恋人と夜を共にし
ているときにも、愛を囁きながら、頭では週末の試合のシュミレ
ーションに余念がなくてはならないだろう。

そんな訳で、ぼくは地元の贔屓クラブ(J2)のサポーターをとう
の昔に下りた。いやいや、サッカーとの関わり方は自分で考え
るべきなのだ。大切なのはサッカーへの愛情を日々の生活に
培うことだ。 ■

(文=石垣ゆうじ)
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by momiage_tea | 2006-07-13 16:53 | 石垣ゆうじ

『原稿用紙の裏』 (7月12日)

【神様、仏様、オシム様】

過去の反省も、今後の明確なビジョンをうち立てることも
なく、日本サッカー界は次のステップに進もうとしている。

すべてはオシム頼みなのである。ジーコはすでに新天地
のトルコで始動を開始し、川渕キャプテンは次期代表監督
にオシムを指名したことで責任追及を免れている。

ジダンとマテラッツィのFIFAを巻き込んでの醜い争いは、
ワイドショーを連日賑わしているし、中田英寿の引退が美
談として語られ、もはやドイツで日本代表がさらけ出した
膿は、そのままかさぶたと化してしまっている。

ゆるんだ箍(たが)が修復されるか否かは、結局オシム次
第なのだ。神様、仏様、オシム様である。日本サッカーは
Jリーグの無意味なオールスター戦から動き始めたが、オ
シムは「現時点ではなにも喋ることはない」としている。

オシムは賢い。中田英寿は記者団からのレベルの低い質
問には答えないか、憮然とした態度で臨んでいたけれど、
オシムのやり方はもっと賢明なのだ。

『オシム語録』が出版されるぐらい言葉をもった人物である
が、彼は自ら語る代わりに、逆に記者に質問もする。記者
がどういう意図で質問したのか、その質問がサッカー界や
チームのために必要なものか、そもそも答える意味がある
のかどうか・・・・・・、彼は瞬時に判断する。

日本代表に足りなかった自己犠牲の精神とプレー。オシム
ジャパンの主役はオシムだ。中村俊輔でも平山相太でなくて
もいいのだ。オシムはひとりのスターではなく、ひとつの闘う
集団を育ててくれるに違いない。 ■

(文=石垣ゆうじ)
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by momiage_tea | 2006-07-12 14:38 | 石垣ゆうじ

『原稿用紙の裏』 (7月11日)

【ほんとは他力本願なボールについて・・・】

今後もゴールキーパーにとって受難な時代がつづく
のだろうか。今ドイツワールド杯で使用された公式球
は、生地を繋ぎ合わせる縫い目と、それにともなう溝
が大幅に減少したため、空気抵抗による影響が極め
て少なくなった。

当初は、キッカーの技術をより正確に反映されると期
待されたが、空気抵抗が少なくなったことで、ボール
を強く蹴ると横にブレたり、落ちたりと不規則な変化を
もたらす場面が多くなっていた。

今大会でミドルシュートによる得点が多かったのは、
ボールの変化を期待し、事実功を奏したからである
が、対ブラジル戦でのジュニーニョ・ぺルナンブカー
ノによる2失点目について、ゴールキーパー川口は
「いまのぼくの技術では取れない」と語っている。

イージーミスとする目もあるが、ゴールキーパーは
シュートが蹴られた瞬間にコースを読み、ほとんど
無防備な状態で宙に体を投げ出すのだ。味方に当
たるなどしてコースが変わると、そのボールに反応
することは非常に困難な仕事なのだ。

結果として、一試合あたりの平均ゴール数は、準決
勝までで「2・27」と90年イタリア大会に次ぐ低い記
録となった。もし、ゴールキーパーの不本意なミスが
なければ、より必然的にゴール数も激減しただろう。

予測不能なミドルシュートは、一見派手で面白いと
思われるが、ミドル、ロングシュートに固執するあま
り、自分たちのサッカーのリズムをぶち壊してしまっ
たチームも多々見受けられた。

いずれにせよ、めくらめっぽうなゴールが量産され、
試合の緊張感を殺がれるのは御免だ。アルゼンチ
ン代表が、26本の細かいパスをつなぎ、相手ゴー
ル前に進入して得点を挙げたけれども、今大会で
もっとも賞賛されるべきゴールだったと思う。 ■

(文=石垣ゆうじ)
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by momiage_tea | 2006-07-11 12:03 | 石垣ゆうじ


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