葉蘭
ジョージ・オーウェルを読むのは初めてだった。彼のことを語った記述なら
いくらか読んだことがあった。それは『動物農場』、『1984年』、『カタロニア
讃歌』といった代表作を通じてのものだった。クセ球を得意とする変則的な
読者であるわたしはいつでもそうした王道には縁がなかった。裏道ばかりを
このんで歩いているとそれなりの臭覚が鍛えられてきて、さも常連客を装い
ながら初めての暖簾をくぐるかのようにしてわたしが手に入れたのは『葉蘭
を窓辺に飾れ』(彩流社/大石健太郎・田口昌志共訳)だった。
どうしてこうも今の自分の境遇に合致した作品とばかり出逢ってしまうのだ
ろうか。題名にある『葉蘭』というのは「花も咲かせず、可愛げのないしろも
のである。だが育てるには丈夫で、まったく手がかからない」植物のことで
あり「共稼ぎで家事に手を割く時間の少ない貧乏な中産階級下層の夫婦は
、概してこの葉蘭を部屋の色どりにする」(訳者あとがき)のだという。つまり
はこの物語はアパートの家賃はなんとか払えるものの、飲み代や煙草銭
には事欠き、いつも食費を削ったり外套を質に入れたりして生活をやりくり
しなければやっていけない生活者を描いた小説なのである。
人生の応援歌はいつだってなくてはならないけれど、こうしたお手本を目の
前にしてしまうとわたしは読み物にのめり込むのと同時に、自分の仕事を奪
われてしまったかのような焦燥を感じてしまうのだった。それでもやっぱり
ジョージ・オーウェルは市井の感覚を持ちあわせた理想的な作家であると
いう感慨を否定することはできない。その証拠にわたしは彼の作品を読み
進めながら顔をほころばせていることに自分で気づいてしまったのである。
わたしはあくせくと早急に階段を駆け上らなければならない。通過点でしか
ない到達点までわたしはいまだに達していないのだ。その場所はしかし決
して手の届かないところにある訳ではないのだという思いも拭い去ることは
できない。わたしはメジャーリーグのイチローにはなれないし、ボクシング
の内藤大助にもなることはできない。それでも物書きとして、いずれ活字に
なるであろう作品を書き上げることはできるのだ。
言葉を書き綴ることによって自らの首を絞めているわたしのような人間は、
ただ一点、その可能性を秘めているという不確定要素極まりない希望を持
つことによってのみ、他者より優位に立てるのだった。だがそうした優越感
はこの世ではなんの役にも立たなかったし、やはり自分を雁字搦めにして
しまいかねない危うさを孕んでいた。そしてもっといえば、活字となった書物
はその都度、チャールズ・ブコウスキーが遺言のように言い残したとおり
「――傑作はいつでも最新作」でなければならないのだ。
わたしは十字架を背負って果てしなく続く山道を登っている。頂上はガスが
かかって拝めないばかりか、きっとあの世にあるのに違いないはずなのだっ
たが、それでもわたしはよろめきながら、たどたどしい一歩を踏みこむことし
かできないのである。されど人に見えない物が見えるという煩わしさを、特権
でもって征服しなければならないのだ。
(文=いしがきゆうじ)
タイトル : 1Q84 BOOK 1、 1Q84 BOOK 2 【村上..
こんなにも淡い恋があったんですね。このふたりぜひとも再会させてあげたい。早くもBOOK3とBOOK4の発売の予感のする終わり方です。早く続きが読みたい。...more
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