ナックルボーラー


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朝起きて、茶の間のテレビをつけるとウェイクフィールドが投げていた。ボストン
・レッドソックスのナックルボーラーはこの日も宿敵ニューヨーク・ヤンキースを
相手に持ち味を発揮していた。身のこなしのこざっぱりした投げ方をするこのベ
テラン投手は、六回までに二点を失いながらも味方の四点の援護のおかげで
勝利投手の権利を得ながらマウンドを降りていった。わたしはボストンのファン
ではなくウィクフィールドのファンだった。いや、むしろファンというよりも味方とか
支持者といった方が適切かもしれない。ともかくわたしは彼に対して勝手に借り
をつくっていたので、その借りを返すためにもウィクフィールドの後継者を名乗り
たいぐらいの心境だった。

あれは東京三崎町の出版社が居並ぶ雑居ビルの三階でのことだった。わたし
は編集者とライターを養成する講座に参加しており、三ヶ月後にはそこから優秀
な生徒があらたに立ち上げるスポーツ雑誌の小間使いとして選抜されることに
なっていた。受講生は十四名ほどで、既に名のある出版社で働いている者もい
れば、映画のシナリオライターや単なる講師の追っかけをしているような人物も
いた。目的は各々で、わたし自身も雑誌の実戦部隊に潜りこめるなどとは思っ
てもいなかったのだった。しかし、受講料の六万円を振り込んでいたわたしたち
は都会の片隅でなにがしか地下組織的な濃密で危なっかしい世界に身を投じ
ているような感慨を胸に秘めていたものだ。

講師は『週刊プロレスリング』誌の元編集長で、みずからゴリラ岩本を名乗って
いた。彼はキャラクターの世界を現実にして生き、一m九〇cmの上背を誇り、
山高帽から白糸の滝のような長髪をたらしていた。その存在感と奇抜な出で立
ちのせいでレスラー連中からは嫌われていたが、その真相は彼が雑誌で書くも
のの中身をレスラーたちが誰ひとりとして理解できないでいたからだった。ゴリ
ラ岩本は、「レスリングとは、レスリングについて考えることがレスリングなのだ」
と定義した。そうして活字レスリングというジャンルを創出し、熱狂的な読者を獲
得していった。『週刊プロレスリング』誌はその発行部数を飛躍的に伸ばし続け、
ゴリラ岩本は名物編集長と呼ばれるようになっていた。

わたしは十八歳の頃から毎週欠かすことなく、ゴリラ岩本のコラムを読み継いで
いた。彼の書くものは競馬で負けたオケラ街道での心境だったり、少年の日の夏
の思い出だったり、冬の街角で聴いたチャイコフスキーの旋律だったりした。ゴリ
ラ岩本は一見レスリングとはまったく関係なさげな事柄について書き、それでいて
レスリングそのものを観たような感慨を彷彿とさせてくれた。レスリングを知らない
人たちには巡業サーカスの一行を思い浮かべてもらいたい。ぽっかりと空いた町
の広場にやってきたサーカスのテント。そこでは美女も野獣も小人もいて、ライオ
ンに象にピエロまでもがいた。空中ブランコも綱渡りも、火の輪を潜り抜ける百獣
の王の姿もほとんど忘れてしまい、やがて祭りの後の寂しさと夢の残骸だけを残
し、ぷっつりと彼らはどこかへ立ち去ってしまうのである。消息不明のままであり
つづける旅一座。非日常と聖なる一回性。その儚い世界に漂うある種の胡散臭さ
や怖れ、憧憬、逃避。勇気。わたしだけの秘密と理解……。そうしたものをゴリラ
岩本は雑誌を通じてわたしたちに与えつづけてくれたのである。

わたしも数多の信者と同類で、ゴリラ岩本に人生を狂わされたひとりである。仙台
から東京に上京してきたわたしのことを彼は「おのぼりさん」といった。そうして彼
の差し出してきた課題に対して犯したわたしの過失と彼の制裁が、さらにその後
のわたしの行く末を決定づけてゆくことになるのであった。四月のある金曜の夜、
宿題の成果であるわたしの書いたエッセイを、ゴリラ岩本は三崎町の貸会議室に
集まった十四名の生徒の前で公開添削しはじめた。彼は開口一番にこういった。
「ぼくが求めているのは規定演技なんだよ。きみが書いてきたのは自由演技です
よ。しかも基礎のできていないデタラメな自由演技だからね!」さらにゴリラ氏は
つづけた。「野球でいったら、きみはぼくが直球を要求しているのに変化球を放っ
てよこすようなものですよ! しかもどこに飛んでいくのかさっぱり分からないと
んでもないナックルボールなんですよぉ!」そういって彼は教卓をバンバンと叩き
つけた。貸会議室は満場の笑いに包まれた。ひとりわたしを除いて。

彼の講義はそれ自体がパフォーマンスだった。彼はわたしの原稿に容赦なく赤
ペンを入れながらも、わたしではなく他の生徒たちに向けて話していた。ある対象
についてゴリラ岩本は自分の物の見方とレベルの高さを誇示してゆくのだ。そう
することでわたしは、彼がひとりの編集者やライターを育て上げようとしているの
ではなく、単に自分の部下を品定めしているのに過ぎないことに気づかされてい
ったのだった。ひとり笑い者にされたわたしはしばらく喪失感に苛まれていたもの
であった。がしかし、ふとひとつの事に思い当るのだった。確かにわたしの書いた
ものは稚拙で笑いの種でしかなかっただろう。けれども廻りの十三人が持ち寄っ
たエッセイも、さりとて佳作の域を脱してはいなかったはずである。わたしには
なんの印象も残さなかったからだ。もちろん、ゴリラ岩本はすべての原稿に対
して赤を入れ、叱咤し、時には人を褒めさえすることもあったのではあるが……。

わたしは自分が“クセ球師”であることを思い知らされた。されど一六〇kmの剛
速球投手はそこにいなかったし、九回裏の二死満塁のマウンドを乗り切るだけの
フォークボールを持つピッチャーもいなかったのだ。彼らは彼らで試合を任せら
れるだけの先発投手であり、ブルペン投手であり、ドラフトの目玉になりつつある
逸材ではあったかも知れないのだが、わたしのようなナックルボールやスローカ
ーブは誰も投げることはできなかった。

それから五年の歳月が流れ、わたしの放る“クセ球”はようやくコントロールが
ついてきたようだった。あのとき、ゴリラ岩本が未熟だといったわたしのコラムは
技術の問題ではなく制球の問題なのだった。それはマウンド経験とマウンド度胸
の乏しさをも意味していたし、かてて加えてわたしは練習嫌いのマイナーリーガ
ーだったのだ。それでも、そのドサ巡りのお陰でわたしは自分の“クセ球”に磨き
をかけることができたのだった。いま、わたしは若者と短距離走を競うことはでき
ない。そのような練習からも進んで遠ざかっている。だが、そうしてメジャーの舞
台を夢見る彼らを尻目に、耽々と外野フェンス前でのジョッギングを繰り返して
いるのだった。

(文=いしがきゆうじ)

(絵=TOMOt)
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by momiage_tea | 2009-06-12 11:59 | ゆうじ × TOMOt


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