ベル
このびくついた犬を眺めていると、片目の視力を失くしたのはどこかの卑劣なゲス野郎に虐待を
受けたのが原因なのではなく、なにかしらパニックに陥った際に生じたアクシデントによって、たと
えば強風に煽られ、倒れてきた立て看板の衝撃に怖じ気づいて逃げまどい、引きずった散歩用の
リールが停めてあった自転車に引っかかるとそいつをなぎ倒し、運悪く自転車のハンドルの柄が
彼の右目を直撃したのではないか、と思われる。
恐怖と痛みに耐えながら、やがて保護されるまでの間に、彼は度重なるアクシデントに見舞われ
てすっかり憔悴しきってしまったのであろう。彼を里親募集会から引き取ってきてからのしばらく、
彼は走ってもハアハアと息を漏らすでもなく、繋がれた縁側の奥からこちらを覗きこんで、新しい
飼主の顔色をうかがい、いつまでも寝顔をみせることがなかったものだ。ワンともヒンとも鳴かず、
身をひくくしてなすがままに床にぺたりとする彼を不憫に思わずにはいられなかった。
それがいまではわがままになり、声に出して不満を露わにするようなときには、わたしはお返しと
ばかりに彼を廊下の隅にまで追いやり、ぎゅうっと抱きしめてやるのだった。そのときの屈折した
愛情を拒絶するような窮屈な彼の表情が、わたしのSっ気に火をつける。彼は逃げ場を失い、お
やつを獲得するまでの束の間、身を悶えながらグッと堪え忍ぶのであった。そのくせ彼は、解放
されると素早くその場を立ち去ろうとするわたしを逃すまいと、尻のすぐそばまでぴたりとひっつい
てくるのだ。
それで、わたしは廊下の角に頭かくして尻かくさずの体(てい)になって、おやつの袋をわざとガサ
ゴソやってやり、いたずらに彼の期待を盛り立ててやるのだった。クッキーなり、ジャーキーなり
を発見したときの彼の興奮といったら、里親募集会で身じろぎひとつせず駐車場のはしっこでおと
なしく佇んでいたのとおなじ犬なのかと、思わずうれしくなってしまうのだった。先日、予防注射の
ため近くの集会所まで車で出向いた折りには、車中でも会場でもやたらと泡をふきまくっていた彼
は、恐ろしさのあまり注射を打たれたのにも気づかぬ様子であった。
やっとの思いで廊下の隅の我が家へ戻ってくると、多少青ざめた表情を残しながらも、そこへ平和
な面もちで横たわってみせた。わたしは彼のための予防注射といえども、悪いことをしたような気分
でいたから、その安らいだ顔をみると無理くり彼を撫で回して許しを請うのであった。そのときの彼
は嫌な顔ひとつせず、仏さんみたいにうっとりとした目をしてすべてを受け入れたようだった。それか
らわたしは彼を放っておいて、物音をたてないように過ごして彼を眠らせてやった。
■
(文=石垣ゆうじ)
受けたのが原因なのではなく、なにかしらパニックに陥った際に生じたアクシデントによって、たと
えば強風に煽られ、倒れてきた立て看板の衝撃に怖じ気づいて逃げまどい、引きずった散歩用の
リールが停めてあった自転車に引っかかるとそいつをなぎ倒し、運悪く自転車のハンドルの柄が
彼の右目を直撃したのではないか、と思われる。
恐怖と痛みに耐えながら、やがて保護されるまでの間に、彼は度重なるアクシデントに見舞われ
てすっかり憔悴しきってしまったのであろう。彼を里親募集会から引き取ってきてからのしばらく、
彼は走ってもハアハアと息を漏らすでもなく、繋がれた縁側の奥からこちらを覗きこんで、新しい
飼主の顔色をうかがい、いつまでも寝顔をみせることがなかったものだ。ワンともヒンとも鳴かず、
身をひくくしてなすがままに床にぺたりとする彼を不憫に思わずにはいられなかった。
それがいまではわがままになり、声に出して不満を露わにするようなときには、わたしはお返しと
ばかりに彼を廊下の隅にまで追いやり、ぎゅうっと抱きしめてやるのだった。そのときの屈折した
愛情を拒絶するような窮屈な彼の表情が、わたしのSっ気に火をつける。彼は逃げ場を失い、お
やつを獲得するまでの束の間、身を悶えながらグッと堪え忍ぶのであった。そのくせ彼は、解放
されると素早くその場を立ち去ろうとするわたしを逃すまいと、尻のすぐそばまでぴたりとひっつい
てくるのだ。
それで、わたしは廊下の角に頭かくして尻かくさずの体(てい)になって、おやつの袋をわざとガサ
ゴソやってやり、いたずらに彼の期待を盛り立ててやるのだった。クッキーなり、ジャーキーなり
を発見したときの彼の興奮といったら、里親募集会で身じろぎひとつせず駐車場のはしっこでおと
なしく佇んでいたのとおなじ犬なのかと、思わずうれしくなってしまうのだった。先日、予防注射の
ため近くの集会所まで車で出向いた折りには、車中でも会場でもやたらと泡をふきまくっていた彼
は、恐ろしさのあまり注射を打たれたのにも気づかぬ様子であった。
やっとの思いで廊下の隅の我が家へ戻ってくると、多少青ざめた表情を残しながらも、そこへ平和
な面もちで横たわってみせた。わたしは彼のための予防注射といえども、悪いことをしたような気分
でいたから、その安らいだ顔をみると無理くり彼を撫で回して許しを請うのであった。そのときの彼
は嫌な顔ひとつせず、仏さんみたいにうっとりとした目をしてすべてを受け入れたようだった。それか
らわたしは彼を放っておいて、物音をたてないように過ごして彼を眠らせてやった。
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(文=石垣ゆうじ)
by momiage_tea
| 2011-06-10 20:09
| ゆうじ × TOMOt