美しき世界

小さなことをいってもはじまらない。もうウジウジするのはやめにしよう。旅の身支度をととのえておく
ことだ。日本の経済は上向くことがないだろう。生活の水準を落とす、あるいは切り詰めるというのと、
生活をシンプルかつ洗練されたものにすることはちがうのだ。早起きして新鮮な空気を吸う。元気な
相棒と走る。小径に落葉色の陽が浮かぶ。木に挨拶をする。人のいない風景をもつ朝の時間をじぶ
んに守ること。それで一日の充填は賄われるのだ。朝の散歩をしながらつくづく思うのは、私が生き、
知っている世界は実にせまい範囲に限られているということだ。そしてその限られた界隈においても
いまだ足を踏み入れたことのない視界が残されており、そこはいつでも私の秘密の場所となりえるの
だった。どこをどう切り取ってみてもうつくしい。ふるい木があり、あたらしい木があり、枯れ葉をぬって
新芽が顔をのぞかせるひらけた公園がある。並木道、小径、煉瓦づくりの記念館や大学棟の厳かな
佇まい。斬新で開放的なカフェは大学にだけあるのがもったいない。塗れたアスファルトに信号の点
滅がにじみ、裸木の梢(こずえ)には守り柿のように一羽の雀が停まっている。

そう、きのうは鷲をみた。彼もまた柳の木に停まり、首をかしいで私と相棒のベルが通り過ぎてゆく
のを偵察していたものだった。私はその鷲とつながりたいと思った。最後の種族の生き残りとして、
彼の孤高を共有したいと願ったのだ。彼は私たちの存在を気にとめながら同時に気づかぬ素振りも
みせていた。そういうことだな、と私は思う。“※――つまり、「ひとりでほっておいてもらう権利」こそ
ウィリアム・ダグラスという学者によれば「いろいろな権利」のうちでもっとも包括的なものであり。文
明化した人間にとっては最高の価値をもつ権利なのだ(ウィリアム・O・ダグラス著『基本的人権』)”
――“文明化した人間にとって”というのが笑わせてくれるが、鷲のその存在自体がもはや卓越した
文明の証なのである。“ドブネズミみたいに美しくなりたい”と願った歌い手の気持ちがよくわかる。
されど本来の美しさは下水道の配管にあるのではない。ふと森から飛んできた鷲はそこから私たち
の文明をどのように見たのだろうか。少なくとも、柳の木からの眺めはまだ美しかったかも知れない。

(文=石垣ゆうじ)

※引用は、チャールズ・ブコウスキー著『3ダース・ホット・ウォーター・ミュージック』
 山西治男訳によるあとがきより抜粋。
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by momiage_tea | 2011-03-01 23:59 | ゆうじ × TOMOt


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