ブコウスキーとカーヴァー
図書館ではチャールズ・ブコウスキーの評伝を借りてくるはずだった。しばらく貸出中のままの
その書棚は、その日もやはり歯抜けのままだった。それで代わりに連れて帰ってきたのがレイ
モンド・カーヴァーだ。彼の作品を読むのはそれが初めてのことで、私はこの作家の書くものが
気に入った。本屋を訪ねたときも探していたのは別のものだったのに、目にして、迷った挙句、
手に入れて帰ってきたのもレイモンド・カーヴァーの短編集だった。偶然から必然へ変貌を遂げ
るのは偶然の連続であり、その偶然には必然を予感させるだけの連続性というか同一性のよう
な共通項があるのだった。それは弱者からの視点だ。もしくは弱者への同情だ。いや、それは
同胞意識といった方が妥当だろうか。かつて自分も通り抜けてきたハリウッド映画ではけっして
取り上げられることのない埋もれた人間たちの物語を、ブコウスキーもカーヴァーも一貫して描
きつづけてきた作家だ。しかし、そうした物語は見過ごされたままでいいとは思えないし、見過
ごされるしかない取るに足らない人生の断片であったようにも思える。
彼らが書かなければ到底知りえなかったそうした物語は、たとえ脚色が過ぎたとしても創作で
はなく経験をもとにしたフィールド・レポートでなければならなかった。かつてブコウスキーは街
の酒場で浮かれ騒ぐ若者たちを目にして「爪も汚したことのないガキども」と罵りの声をあげた
ものだ。そしてまた自身の作品の登場人物には「おれは臆病者だから、作家になったんだ」とも
語らせている。この世界の嘘いつわりを瞬時に見抜いてしまう気高い審美眼をもった、けれども
人生を直視できない臆病者にかぎって危ない橋を渡りたがるのはなぜなのか。ブコウスキーも
カーヴァーもいまはふたりとも死んでしまってこの世にいない。物書きとしては(とんでもなく)大
物であったのに、あとに残されたのは名も知れぬ、どこにでもいる人びとの、そのようにしか生き
られなかったちいさな生き様だけだ。それだけに、彼らはとても臆病者などとは呼べず、誰よりも
勇気溢れる作家だったといえるだろう。
■
(文=石垣ゆうじ)
その書棚は、その日もやはり歯抜けのままだった。それで代わりに連れて帰ってきたのがレイ
モンド・カーヴァーだ。彼の作品を読むのはそれが初めてのことで、私はこの作家の書くものが
気に入った。本屋を訪ねたときも探していたのは別のものだったのに、目にして、迷った挙句、
手に入れて帰ってきたのもレイモンド・カーヴァーの短編集だった。偶然から必然へ変貌を遂げ
るのは偶然の連続であり、その偶然には必然を予感させるだけの連続性というか同一性のよう
な共通項があるのだった。それは弱者からの視点だ。もしくは弱者への同情だ。いや、それは
同胞意識といった方が妥当だろうか。かつて自分も通り抜けてきたハリウッド映画ではけっして
取り上げられることのない埋もれた人間たちの物語を、ブコウスキーもカーヴァーも一貫して描
きつづけてきた作家だ。しかし、そうした物語は見過ごされたままでいいとは思えないし、見過
ごされるしかない取るに足らない人生の断片であったようにも思える。
彼らが書かなければ到底知りえなかったそうした物語は、たとえ脚色が過ぎたとしても創作で
はなく経験をもとにしたフィールド・レポートでなければならなかった。かつてブコウスキーは街
の酒場で浮かれ騒ぐ若者たちを目にして「爪も汚したことのないガキども」と罵りの声をあげた
ものだ。そしてまた自身の作品の登場人物には「おれは臆病者だから、作家になったんだ」とも
語らせている。この世界の嘘いつわりを瞬時に見抜いてしまう気高い審美眼をもった、けれども
人生を直視できない臆病者にかぎって危ない橋を渡りたがるのはなぜなのか。ブコウスキーも
カーヴァーもいまはふたりとも死んでしまってこの世にいない。物書きとしては(とんでもなく)大
物であったのに、あとに残されたのは名も知れぬ、どこにでもいる人びとの、そのようにしか生き
られなかったちいさな生き様だけだ。それだけに、彼らはとても臆病者などとは呼べず、誰よりも
勇気溢れる作家だったといえるだろう。
■
(文=石垣ゆうじ)
by momiage_tea
| 2011-02-22 23:59
| ゆうじ × TOMOt