視線
うすっぺらい男だ、私は。アレン・ギンズバーグの『吠える』もジャック・ケルアックの
『路上』もウィリアム・バロウズの『裸のランチ』も読んだことがない。代わりに読んだ
のは、ビートニクとはちがうと公言するリチャード・ブローティガンや同じくチャールズ
・ブコウスキーらの作品であった。しかもより好みなのはブコウスキーの方で、彼は
ロサンジェルスのうらぶれた街角でひたすら飲んで、愛して、おし黙ったように吠えて、
また飲んで、を繰り返しているような爺さんだ。
それで私はすっかり移動する視線ではなく静止した視線でものをみることを覚えた
のだった。代わり映えのない自分だけの部屋の窓越しから、萎縮したまま世界の在
りようを眺めている。東京小川町のとある交差点にあるカフェの眺めより、仙台のオ
フィス街にあるカフェの眺めが溌剌としていたことなどただの一度もなかった。それで
いいのだと思う。私は奔流ではなく曲がりくねった川底の、あの淀みのなかに潜む
エメラルド色が好きなのだ。
問題は、そしてちがいは、見るかみないかなのだ。東京に住む詩人はいった。「家四
軒分の空き地があれば空は見渡せる」と。私の住むあたりにも、仙台の街中にも空き
地はある。たとえ空き地がなくとも、東京のような高層ビルやネオンの洪水はすくない
から、たいてい夜空はきれいでいつでも新鮮だ。だから凍てつく風に打たれ、身を屈め、
凍る足許に気を取られてばかりではいけないのだ。ふと立ち止まり、ただ見上げれば
いいだろう。静止した視線のなかに瞬間の一生ともいえる輝きが満ちている。
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(文=石垣ゆうじ 絵=TOMOt)
by momiage_tea
| 2011-01-19 00:00
| ゆうじ × TOMOt