陶酔
そのコーヒーは熱すぎた。客の回転率が鈍っているのは明らかだった。月曜日
とはいえ三連休最後の夜だった。閑散としたカフェのテーブル席でひと組の男女
とふた組の女性たちがさもない会話に夢中になっていた。休日の疲弊した気分
と寂寞はジャズの音色によって幾分解消されたばかりか、ささやかに華やいだ
印象さえ醸し出していた。ちょうどチャップリン演じところの腹ぺこの流浪者が暖
かい灯りと芳しい匂いとを運んでくるレストランを見つけたようなものだ。
わたしにも待ち望んでいたものが忍び足で近づいてくるのがわかっていた。喜び
がもうそこまで来ているのだ。ひとつの短編がわたしの眼に涙を潤ませ、外では
夜気が急激に冷え込んできていることまで感知できた。ふと向けられた視線を察
知したわたしは文庫化されたばかりの『ニューヨーク・スケッチブック』(ピート・ハミ
ル著)をはたと閉じ、はにかんだ笑みを漏らすその娘を見つめ返した。彼女は遠慮
がちに照れてみせたけれども、その眼には女性特有のハッとするような自信を宿
していた。
決して胸は豊満ではないが全体的に肉付きのいい体質の彼女は背が高く、少年の
ように短い髪型が幾分のアンバランスさを兼ね添えた完璧な美を形成していた。憎
らしいほどの可愛さだった。わたしは彼女の瞳の中に――ソバカスと無精髭だらけ
の――醜い自分の顔が映し出されていることさえ忘れてしかと彼女の両目を捉えた。
ここで見逃したら二度と出逢えないのだと言い聞かせながら、ただただ素敵な笑み
を浮かべる娘の美しさに神経を集中させていた。
(文=いしがきゆうじ)
by momiage_tea
| 2009-07-21 21:10
| ゆうじ × TOMOt